クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

深夜にバックアップを見守る、本を読み返す、5分で終わる手続き、カタカナの名前に弱い

firestickの調子が悪い。春に買ったのでまだ一年経っていないのに…と悲しい顔をしている。先日はiPhoneもおかしくなったし、電化製品も季節の変わり目に弱いのだろうか。

iPhoneは突然電源が落ちては再起動を繰り返す状態で、検索してとりあえずの対処法を探したがだめだった。バックアップをとろうにも、途中で落ちてしまって接続が切れるので、なかなかうまくいかない。仕方がないので金曜の夜から始め、終わるまで寝ないことにして見守った。数回の切断の後、機嫌がよくなったのかすこしずつバックアップがはじまり、そのあと200分ほど見守った。テレビ番組もそろそろ終わっていこうかという深夜に、パソコンとスマートフォンが作業しているのをただじっと見守るのは、なかなかおもしろかった。

 

見守っているあいだはやることがなく暇だったので本を読んだ。風邪が治りかけてきたばかりで、新しい本を読むほどの元気がなかったので、そこらへんに積んであるなかから川上弘美の好きなエッセイを2冊読み、まだ終わらないのでそのまま川上弘美「水声」を読み返した。死んだ母の記憶がのこる家に住むことにした姉と弟の、過去と現在の記憶を行き来する物語である。派手な事件はなにもないが、社会を揺るがせた大きな事件にときおり触れながら、父母の秘密、そして姉弟の秘密が明かされてゆく筋立ては、「日常」や「普通」というものの脆さ危うさを静かに突きつけてくる。社会が壊れてしまうような大きな事件でなくても、日常に罅をいれる一撃というのは、いつでもどこにでもあたりまえに振り下ろされる可能性があって、むしろそれが起きていないことのほうが不自然ですらあるのだと、煽るようにではなく、静かに語るような作品だった。

私がいつも不条理文学やスリップストリーム文学やSFにもとめているものは日常や平穏が幻想であるというきわめて現実的な話で、異常も狂気もないけれど、「水声」にはそういう不穏さがあった。そしてそれでいてなお、描かれている感情や関係性の美しさは変わらなくて、ひさしぶりに読み返してやっぱりとても好きな本だと思った。

 

まだ終わらなかったので、そのあとはブローティガン「西瓜糖の日々」を音読した。風邪で喉が潰れておりほとんど声が出ないので、ぼそぼそとだれかにささやきかけるように読んだ。高校生の頃に放送部で放送コンテスト式の朗読を習ったので、あまり感情をこめず読むほうである(もっとも人前に出るのが嫌いで裏方をやっていたので、個人部門はやる気のある同級生や後輩が出ていた。でも習ったことはとても役に立っている)。「西瓜糖の日々」は、西瓜糖と鱒でなんでも作る場所アイデス<iDEATH>で暮らす穏やかな人々と、旧時代の瓦礫が広がる<忘れられた場所>を拠点とするごろつきたちの起こす事件の話だ(このまとめかたはまったくうまくないので、まるで違う物語のようになってしまったが、これ以上うまくは説明できない)。この本はなんといっても書き出しが美しい(翻訳なので、日本語の文章が美しいのは翻訳者の手柄であろうが)。金と権力があれば推しに朗読イベントを開いて欲しい本ランキングの上位に入る(ほかは安部公房の「R62号の発明」とか泉鏡花の「外科室」とか)。

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。

あなたがどこにいるとしても、わたしたちはできるだけのことをしてみなければならない。話を伝えるためには、あなたのいるところはとてもとても遠く、わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから。うまくゆけばいいと思う。

 この美しい文章を熱でかすれた声でぼそぼそと読んだとき、なんとなく、自分の言葉も西瓜糖でできているような気がした。みんなそれぞれの西瓜糖を言葉のかたちに成形しているのだろうとも思った。あまり人になにかを伝えるのは得意ではないので、本や舞台の感想を書いているとき、果たしてこれで伝わるのだろうかと、いつも悩む。それでも、「ほかにはなにもないのだから」、「できるだけのことをしてみなければならない」のだという気持ちになった。

そうやって目の速度ではなく声の速度でゆっくりと読んでいくと、以前読んだときとは、なにがどうとはわからないが、なんだか違うように読めた。以前読んだときにはごろつきたちの起こす凄惨な流血事件と、その無意味で悲しい血をたんたんと洗い流して弔い踊るアイデスの人々に、なにがあっても日常に戻ってゆける人間の姿を見た。でも読み直すと、むしろごろつきたちのほうが正しいように思うのだった。アイデスの人々はかつて虎に食い殺されていたのだけれど、虎はすべて殺され、いまはもう殺される人はいない。墓守は新しく美しい墓を作るが、その棺桶はいつかそこに眠るひとのために空けられている。<iDEATH>という名前でありながら、死のない世界になった。だからごろつきたちの主張と行動はまっとうなのではないかと思った。そして、その主張は、主人公たちアイデスの者の目にはまったく無意味でばかげた狂騒にしか映らず、正しさは理解されないまま狂気として洗い流され、アイデスは変わらない平穏を取り戻す。作品は弔いのダンスパーティが始まるシーンで終わる。平穏に対する疑問も解決も提示されない。ただ事件が片付き平穏が戻りパーティがはじまる。ハッピーエンドのような顔をして、でも、甘やかな西瓜糖に満ちたこの世界がほんとうに幸福であるとは、もはや思えないまま読み終わる。

前よりもずっと好きな本になったなと思った。やはり本は読み返すことが大切だ。でも新しい本も読みたい。集中力も時間も有限なのに、おもしろい本はたくさんある。悩ましいことだな。

 

と思っていたらバックアップが終わったのでその日は寝た。

起きて予約して行ったアップルストアで30分ほど待たされ、そのあいだに他の客が「データが万が一消去されたときのための承諾を」「アップルケアに入っているのならこちらの料金はプロパイダとの契約で後日返金がされます」などの説明を長々と受けているのを眺めて、いったい手続きにどれくらい時間がかかるんだろうか…と思っていたら「診断の結果これは無償対応の対象ですね、本体交換です、これが新しいiPhoneです、ここに受取のサインを、ではありがとうございました」と5分程度で済んだ(実際にはもうすこし丁寧な説明があったが体感としてはこのくらいのスピード感)。ぴっぴっと手続きが終わったので気分良く帰る。

ついでに電気屋に寄って、ぶあつい保護フィルムと、増税前に買おうと思っていたSwitchを買った(いま書いていて気がついたのだがつまりこれは9月の記憶だ)。ゲームはあまりやらないのだが、こうやって本体を買ってソフト何買おうかなと思っているとたのしい。ライザのアトリエがわりと闇という話を聞いたのでちょっとやりたいんだけれど、ゲームってびっくりするくらい時間が溶けていくんだよな…と思うと躊躇する。

 

きょうも雨が降っている。11月が近い。だいぶ冷えるようになってきた。秋と冬はさびしい本を読むのに適した気温の日が多い。買って寝かしてある本を読もう。

通勤の合間などにちょっとずつカミュ「幸福な死」を読んでいたのだが、「パトリス…?突然知らんやつ出てきたな…これ主人公(メルソー)の恋人たちじゃなかったのか…なに…?回想…?でも時間軸は続いてるっぽいよね…?」と思っていたところ、だいぶ後半で「主人公のフルネームがパトリス・メルソーじゃん!あれ全部主人公じゃん!ここからここまで全部読み直しじゃん!!」となり多少やる気を失っている。カタカナの名前に滅法弱い私がすべて悪いのだけれど。ちくしょう。

記憶力がやはり多少悪くなっているのだろうか。若い頃の自分はなんでもっと私の好きそうな本を読んでおいてくれなかったんだろうかと思ったけれど、高校生の頃にいちおう読んだはずのファウスト全然覚えてないので、読んでいてもたぶん時間の無駄だったろう。おもしろそうな本をいまから読む、それでいいのだ。そう思うことにしている。

そうしておかないとこの未読の本の山に未来永劫手を付けるきがなくなる。