クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

意識の低い短歌の愛でかた、あるいはまだ見ぬ「風景」への希望

最近、急に短歌が楽しくなった。カッ!!と目がひらかれたように、短歌が見えるようになった。なにがあったのかというと「ハイキュー!!」(古舘春一)にハマったのである。いえ、同名別作品とかではなくて、はい、ええ、そうです、あのジャンプで連載しているハイキュー!!です。バレーボール漫画を読んで短歌がわかるようになるとは本当に人生は何があるかわからないものですね。

しかしそういえばわたしが短歌に触れたのも漫画からだ。もちろん授業で触れたものはいくらかあったが、愛誦できるほど好きだったのは俳句の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」(三橋鷹女)くらいで、あとは白鳥はかなしからずやなにがしのーとかたとへば君ガサッと落ち葉ホニャラララ、は読んで覚えてはいたものの愛誦するという感じではなかった(どちらもいまでは好きな歌である)。はじめて「あ、覚えたい」と思ったのは「積極」(谷川史子)という少女漫画に引用されていた、「青林檎与へしことを唯一の積極として別れに来けり」という短歌である。とても美しくて、河野裕子という名前とともに覚えていた。そのあとで河野裕子永田和宏の相聞歌集を買い、さらにそのあとしばらくして「近代秀歌」の作者が永田和宏であったので、おお!名前がわかる!というだけで買ったのだった。収録された歌百首以上について、作家や時代の背景・文学史的な立ち位置・歌としての技巧・歌に詠まれた情景の提示がされており、短歌についてずぶの素人の私でも収録された歌について学びながら美しさを味わうことができた。それでいて「……というのがこの歌の背景だけれど、それに縛られてはつまらない。もっと広く美しい読みを取ってもいい」と言い切ったりする、大変におもしろく衝撃的な本であった。

短歌、文芸、もっと大げさに言えば芸術を鑑賞する態度について、「無知や野放図と自由は違う」とたしなめつつも、「鑑賞はもっと自由だ」と許しをあたえてくれるような本だと思った。短歌の読み方だけではなく、芸術を愛する態度について教えられた。非常な愛読書となり、続刊の「現代秀歌」とともに、付箋を貼り繰り返し読んでいる。読むたびに、足りていない部分を戒めるように肩を叩かれ、同時に自信のない背筋を叩いて伸ばしてもらえるような心持ちになる。

知らないということは決して恥ずかしいことではない。しかし、「知らない」ということに対しては慎み深くはありたい。知らないと言ってそっぽを向いてしまうのではなく、知らないけれど、できれば知りたいとは思う。

(「現代秀歌」(永田和宏/岩波新書)P245-246)

この文章に触れたとき、「知る」「知らない」ということについて長年抱えていた言葉にし難い靄が一気に晴れた思いがした。「知らないことはよくない」とか、「知ろうとしないことはよくない」とかではなく、「慎み深くありたい」という表現が染みた。キャパシティがあまりないので、興味を持ったものすべてを調べることができず、また調べても難しすぎて咀嚼できないことも多い。知らないことがある、ということへのストレスがあった。知ろうとして、知ることができなくても、「知ろう」という心を失わなければ、いつかは触れることができるかもしれないと思うようになった。

 

それでいて長年短歌、とくに時代が下がっていくほどに大変な苦手意識があった。感受性に欠けているため、三十一文字はあまりにも短く、なにを言われているのか掴みかねることが多かった。わかっても好きな歌とそうでもないな……というものもあった。

たとえば、世を憚る恋を歌った「相触れて帰り来りし日の真昼天の怒りの春雷ふるふ」川田順)や、愛しい夫を追いかけてついに再会した喜びにあふれる「嗚呼皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟」与謝野晶子)、ものごとの見え方を知ったときの目の開きかたを詠んだ「馬と驢と騾との別を聞き知りて驢来り騾来り馬来り騾と驢と来る」土屋文明)などは最初に読んだときからスッと好きだった。

しかし、「あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」小野茂樹)などは、なにを言っているかはわかってもスッとしみてこない状態だった。情景はわかる。恋人の話をしているのだろう。もう戻らないあの日の、表情だけでも見せてくれ、そう恋人に乞うているのだろう。なんとなく、秋の青い空を思った。夏の苛烈な青さに似た、しかしもう少し透明度のある秋晴れ、温度と湿度の違う空気の中、恋人に求める表情は曇りなき幸福であったころの笑顔であろうと思った。そして恋人はもう自分にそんな顔では笑わず、その笑顔は秋の薄雲がかかるようにわずかに違う色をしているのだろうと思った。またこの歌にふれたのは「現代秀歌」なので永田和宏の鑑賞がついており、そこでは「青春の一回性、もどらない時間への強い思い」ということが解かれていた。美しい歌だと思った。思ったが、そこで手触りが止まってしまうのだった。

で、ハイキュー‼︎を履修*1してからなんとなく現代秀歌を読んでいたとき、この歌を読んで突然「お、お、及川徹!!!岩泉一!!!!!」になった。エウレーカ!と思わず立ち上がった(情動と身体が結合している人間なので、興奮すると立ち上がる)。未読の人向けに説明すると、及川徹というキャラクターは、高校バレーを題材にした物語の中で、主人公のひとりの師匠兼格上のライバルにあたる他校生だ。就いているセッターというポジション(主に攻撃に繋がるトスを出す扇の要的な役割)における県内トップクラスの選手である。「青葉城西(強豪校)の及川」の名は広く知られており、攻守に優れた司令塔として強豪チームをまとめている。その及川には、精神的なタフさ・ブロックを弾き飛ばすパワー・広い視野で戦局を読めるクールさをもつ知勇兼備の優秀なエース・岩泉一とコンビを組んでいてなお中学時代からずっと勝てずにいるライバル・牛島若利が他校にいる。物語の中、及川と岩泉は何度も牛島に敗北する。「おまえは(自分と)同じチームで戦うべきだった」という牛島に、しかし及川は同じ学校で共闘する道ではなくライバル校として叩き潰すことを選んだのは間違っていなかったと、何度負けても言い切る。

ここで歌に戻る。「あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」。「あの夏」は、四季ではなくインターハイやそれに相当する、試合という選手のもっとも熱く咲き誇る「季節」だろう。数限りなく挑み、そして敗北してきた彼らの「たつた一つの表情」は、しかし泣き顔ではない。涙ののこる眦で、それでも不敵に歯を見せて笑って「次こそは」と誓う、不滅の炎に照らされたうつくしいファイターの決意である。及川と岩泉が互いに「たつた一つの表情をせよ」と相手に求めるのは、請願ではなく信頼だ。俺は強い、おまえは強い、俺たちは強い。何度だってどこでだって最強の六人になって、次こそはあいつを倒そう。何度地に叩き伏せられても顔をあげることはやめない、自分は、そして自分の相棒はそういう男だ、という信頼ゆえだ。岩泉「一」と及川「徹」、ふたりの名前があわさると「一徹」となるのは、かれらの勝利へ焦がれる心がどちらかだけではなく分かち難くふたりのものであるということなのだろう。

もちろん、恋の歌をこう取るのは不適切だろう。それに外側の全く関係ない文脈を持ち込んでいるのだから、元の歌よりも情報が増えるのは当然であり、まあ、邪道である。それでも、「きれいだな」と思っただけでそこから先に行けなかったものに思い切り手が触れた、そこに確かに熱い滾りの感触があると思った瞬間、「この歌が大好きだ」と思った。最初に自分なりに取ったように、また永田和宏の鑑賞のように「恋の情景」として見たときよりも、この取り方のほうが私はずっと好きだ。歌のなかに詠まれた感情にたしかに触れたと思った。恋というならば、及川と岩泉は勝利へ恋をしている男たちなのだからいいではないか、それが特定の個人への烈しい感情という点では恋心もライバル心も持つ熱は同じではないか、とも思った。

文化を大切にするということは、それを高みに奉って眺めることではない。大切にしまっておくことでもない。自分たちの財産である文化は、日常のなかでこそ活かしてやるべきなのである。日常会話の端々に、詩歌のフレーズがチラッとかすめたり、ある場所や風景に出会ったときに、一首の歌をかすかに思い起こしたりすることが、文化を〈自分たちのものとして〉大切にするということであろう。

(「近代秀歌」(永田和宏/岩波新書)P245−246)

誠に都合のいい解釈だが、漫画という「風景」に出会ったとき短歌を思い浮かべたことで、ぱあっと視界がひらけたような気がした。自分が、自身の経験として見ることができる「風景」は一人分である。しかし小説や漫画や舞台、そういったさまざまな「風景」に出会ったとき、それまで理解はしても身にはなっていなかった短歌が手ごたえをもって落ちてくる可能性があるのなら、もっとたくさんの美しいものが見られるのではないかと思った。背景や鑑賞を見てなお文字でしか感じとれなかったものが、その歌を詠んだ瞬間の、種類は違ってもどうしようもなく動いた感情の大きさに触れられるのではないか、と思った。重ねていうが、邪道であろう。しかしたどり着けないよりは楽しい。楽しくなければ持続的に触れる興味ももてないので、アクセスする手段が増えたことはとてもうれしい。

 

そういう視点を得てから買った歌集は、やはり「なんだかわかんねえな」と思うものもあれば「見えた!!」とはしゃいでしまうものもあった。でも「なんだかわかんねえな」と思っても、いつかその歌がぴったりくる風景を見てからもういちど触れられるのかもしれない、という希望があると、わからないこともつらくはない。「知ろう」という心を持ち続ければ、いつか知ることができる、いまはそう思える。

歌自体のイメージだけでは「美しいな」と思うだけで近づけなかったものが、なにかの風景と重ねて読むことで、感情を補って「なんて美しいんだ!!」までたどり着けるようになった。もっと研鑚を積めば、いつかは歌そのものと向き合っただけでその歌が「見える」ようにもなるのだろう。その日が来るまではひとまず、この意識の低い愛でかたで邪道を行こうと思う。

 

最近買った歌集では「リリカル・アンドロイド」(荻原裕幸)が非常によかった。簡明で色がきれいで、外部の文脈を持って来ずとも真っ向から刺さってくるような歌ばかりで、布団に転がって読みながらばたばたと暴れた。最初の方から好きな歌をいくつか引く。

優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて梅を見にゆく

さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに

そこに貴方がここに私がゐることを冬のはじめのひかりと思ふ

(「リリカル・アンドロイド」(荻原裕幸/書肆侃侃房))

こうして引いてみると、美しいと思うと同時に、以前であれば「なんだかわかんねえな」の箱に入れていた歌であるような気もする。何を歌われているかはわかっても、その美しさにリーチしている感触が得られていなかったかもしれない。外部から風景を借りてさまざまな歌を眺めるうちに、短歌にふれる経験が積み重なり、すこしずつ見える範囲が広がってきたのだろうか。そうだといいなと思う。

 

 

あ、青葉城西の話をしといてなんなんですが、推しは烏野(特に日向・西谷・月島)、他校だと天童です。その四人が特に好きなだけで基本的にみんな好きです。ハイキュー!!、みんなバレーが好きでとてもいいですね。はやく原作届いてくれんものか……。

*1:28巻無料キャンペーン分とアニメS1〜S3。原作全巻を注文したのだけれど、非常事態で1ヶ月経っても未だに来ないのでそろそろ電子を検討している