クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

楽しく観終わるつもりだったんだが、コスタードを膝に受けてしまってな(舞台「ラヴズ・レイバーズ・ロスト」感想)

コスタードを矢みたいに言うなよ。

しかし推しを観に行った劇場で予想外の場所から撃たれたので矢みたいなもんである。

 

順序よく話そう。まずは作品全体の感想などを(タイトルを見てコスタードもしくはコスタード役・遠山裕介さんを褒めてるあたりだけ聞きにきた人は中盤の「コスタードの話をするぞ!!」と言ってるあたりをどうぞ。ページ内検索が便利です)。

なおこの感想において注釈なく登場人物を挙げたり引用を行う場合は、2019年10月にシアタークリエにて上演されたバージョンのLLLのものである。あくまで東京公演のみを観劇した際の感想であることをお断りしておく(なお、原作などに触れる際は「原作では」のように断りを入れる)。

 

こんなタイトルで文章を始めたが、私は村井良大さんのファンである。いやまあファンという言葉をつかうのもためらわれるようなふわふわしたニワカではあるのだが(単に舞台行って作品イベント行って出演番組録画してグッズ買って書籍買って雑誌買って関連DVD/BD買ってる程度なので6年推してまだファンと自称しがたく「推してる…」くらいの言葉遣いになってしまう)、金銭感覚は長年のソシャゲガチャにより破壊されているので、出演される舞台は時間と体力の都合がつく限り観に行く。そういうわけでラヴズ・レイバーズ・ロストも観に行った。

 

ラヴズ・レイバーズ・ロスト(以下LLL)はシェイクスピアの初期喜劇「恋の骨折り損」をベースにしたミュージカルだと聞いて、シェイクスピアヴェニスの商人くらいしかまともに知らないがまぁ古典ベースの作品にハズレはなかろう、ましてやミュージカルだ!と楽しみにしていた。実際とても楽しい作品で、初見時は「ディズニーのショーみたいにずっとにぎやかで華やかで楽しい」と感想を書いた。映像化がだめならせめて日本版キャストの歌唱アルバムがほしい…。

 

物語の流れは明快だ。

さまざまな欲を禁じてストイックに学問を修める誓いを立てたナヴァール国王とそのお付きの貴族ビローン、デュメーン、ロンガヴィルの四人は、病床に伏せる父王の代理として交渉にやってきたフランス王女とそのお付きであるロザライン、キャサリン、マライアに恋をする。彼ら彼女らは大学生のころに思いあっていたのだが、男性陣は誓いのせいで恋を打ち明けることができず冷淡な態度を取り、女性陣は「くだらない誓い」なんぞ立てているせいで自分たちに冷たい男たちの態度に腹を立てる。

ナヴァール王たちの大学時代の学友で恋に生きる男・アーマードはバーのウェイトレス・ジャケネッタに恋をし、苦心して情熱的な恋の詩を書き彼女へ贈る。ロザラインへの恋を鎮めようとしていたビローンはアーマードと会話するうち、自分も恋の詩を書いてロザラインに想いを伝えようと決意する。しかし二人の手紙をことづかったバーテンダー・コスタードが封筒を取り違えたためジャケネッタとロザラインはそれぞれ誤った手紙を受け取り、それがめぐりめぐってビローンのもとに戻ってくる。

ナヴァール王たち4人は仲間全員が恋に落ちたことを知ると、いままで馬鹿にしていたアーマードを見習って情熱的に恋を勝ち取ろうとするが、フランス王女たちは男たちの策略を出し抜き、彼らに勝って心からの愛を差し出させようとする。

ナヴァール王たちのサプライズによるもてなしと求愛はフランス王女たちのサプライズ返しによって失敗するが、心からの求愛を無残に笑われ意気消沈する男たちの姿と言葉に、フランス王女たちは心を動かされ、素直に寄り添いあう。

 

金も教養もあるセレブたちが恋をした途端に感情に振り回されて愚かになり、意地を張ってなんとか相手からの愛を勝ち取ろうと見当違いの努力をする。舞い上がって恋の詩を書き、喜ばせたくて異国のダンスを踊り、からかうためにいたずら(仮面の交換)を仕掛ける。どれも無意味でみな等しく愚かで、でもそういうところがどうしようもなく恋の、とてもキュートな群像劇である。最近どこかで見たなこういうの…あっ「かぐや様は告らせたい」じゃん…と思った。いつの世も素直になれない男女があれこれと恋の駆け引きをするのは愚かしく可愛らしくクスッと笑える題材なのだなとしみじみする。

 

恋愛模様だけでなくそれぞれの人間関係の可愛らしさもある。ナヴァール国王たちのお互いをからかったり励ましたり寄り添いあう姿にはいかにも青春と友情を感じる。

皮肉の効いたウィットで他人を刺してにやにやするビローンは、しかしその機知によって友人たちから信頼されている。誓いを破って恋に落ち、自らの誇りを踏みにじったことで悄然とする男たちは、「僕たちを救う理屈を考えてくれ」とビローンの言葉に望みをかけ、ビローンはAre you a Man?で見事に彼らを立ち直らせる。若い男が女を断つなんて無理だと序盤のYoung menでも歌っていた訳だから、彼の考えは一貫している。過剰にストイックなナヴァール王はいささか真面目すぎ、デュメーンとロンガヴィルも彼の友人にふさわしく純粋な気持ちのよい男たちである。ちゃっかり煙草を捨てずに隠し持っていたビローンのようなずるさは他の三人には見られない。ビローンがいることによって張り詰めすぎずにいられる好バランスが保たれるのだろう。

 

クリティカルに突き刺さっているRich peopleを殿堂入り的に除外して、ほかに好きな曲をひとつ選ぶならTuba songだ。物語の最後に(正確にはあと一曲あるが)その作品のダイジェストというか、総まとめみたいな曲が入るのが好きなのだ。「エリザベス時代の言葉は要らない 未来が過去になる だけど今は」、作中の恋愛騒動のことを指していると同時にこの作品(LLL)も原作がそうであるようにいずれは時代にそぐわなくなるだろうというクールな眼差しをも含んでいて、でもそれを祝祭のムードで明るく歌い飛ばす(笑い飛ばす的な意味合いで読んでほしい)のが、さりげない毒と棘に満ちつつも爽やかに観終われてにぎやかに楽しいLLLそのもののようですごくいい。

またラブコメとしての構成的にもTuba songはとても重要だと思っていて、この曲で一回「ハッピーエンドの舞台」が終わっているのがすごく好きだ。Love's a gunでジャケネッタは「結ばれる そしてアプローズ その先はないの」と歌っていたが、ボイエットの報せ以降の展開は一度幸福に恋物語を成就させ、拍手を受けて役者たちが去っていった「その先」のように感じる。恋愛は結ばれてそこで終わるのではなく、結ばれたあとの暮らしにも波乱はある。でも、彼らがお互いを想い合いながら離れてゆく姿を見送っていると、きっと大丈夫なのだろうと思える。これから先何度も問題に直面するだろうけれど、肩を寄せあえる距離にはいなくても、心が寄り添っているから大丈夫なのだ、という、ハッピーエンドの先のトゥルーエンドを観ているような気持ちになれる。

 

物語についての話を離れ、各役者とキャラクターについて感想を書きたい。最初はキャラクターが特に刺さった数人で済まそうと思っていたのだけれど、最終的には「いや全員言及したいだろうこれ…全員最高だろう…!」となったので全員分ある。各役者のファンの方から見ればどれも目新しい褒め言葉ではないだろうが、とにかく全員素晴らしかったということを記録しておきたいので語彙力の無さと「そこじゃねえんだよなぁ!」的な視点のズレはご容赦いただきたい。

並べ方はなんとなくなので目当てのキャストがいればフルネームでページ内検索かけてください(ユーザビリティに一切配慮がない)。

 

ロザライン役・沙央くらまさん、強さと弱さの入り混じるロザラインを非常に美しく生きていらっしゃって、その凛とした佇まいの美しさに何度でも見惚れてしまった。コスタードに「あんたらのおかしらは誰だい?」と訊かれた際に「見ればわかるでしょ、他の子には『おかしら』がついてなぁいの」と答える、あからさまに尊大な態度というわけでもないのに視線がナチュラルに上から降ってくるような、生まれながらの上流階級であることを感じさせる雰囲気の醸し出し方など最高だった。少しハスキーで色気のある歌声がとても素敵で、特にStop your heartでの独唱での涙にふるえるような声は胸を打った(「あのときならまだやり直せた ブラバントでのラストダンス…」のところの甘く切ない余韻が特に好きだ)。

クールな美女でありながら、微笑ましくすれ違う駆け引きを通してビローンの気を引こうとしたり、ボーイズを出し抜いて得意げに勝利宣言をするところなどはとても可愛らしい。Brabant songでの「こいつサイテーなにも覚えてない!」のところの動きとかちょっとコミカルでめちゃくちゃ可愛い。またフランス王女の提案に懐疑を挟みつつも「あなたが望むなら」と承諾するところは、大好きな友達の言うことにほだされて流されてしまう女の子同士の付き合いを感じてキュンとする。気の強そうな美女がグラついてるところを見せられてときめかないオタクなどいるものかよ。性癖に刺さる刺さる。

本編からは離れるのだけれど、女子会トークショーレポで見かけた「(もと宝塚男役の方なので)つい相手をエスコートしようとしてしまうため、村井さんが名前+ちゃん付けで呼んで女の子扱いしている」という話を見てなにそれめっちゃかわいすぎるが!?とギャップで死ぬほどキュンとした…あんなにエレガントに淑女を演じてらっしゃるのにそんな苦労が…!?でも目元が涼やかなお顔立ちの美女に下から手を出されてエスコートされそうになる村井さんちょっと見たかった(悪いオタク)。

フランス王女役・中別府葵さんはひとりだけパンプスを履いていてなお際立つすらっとした長身とバービー人形のようなビジュアルでありながら、はしゃいでみせるときはあどけない少女のような可愛らしさで、大人と子供の時間を揺れ動くロスタイムのさなかにいる人間らしいゆらぎがとても素晴らしかった。仮面をシャッフルしたときに「…?あれ?身長差が…?」と訝るような身振りのビローンに慌てて膝を曲げ合わせてこれでよし!みたいな顔をするところの一連の動きをはじめもうちょっとした仕草がいちいちとてもかわいくて、ゴージャスな大人の美女に育った外見と、無邪気で少し残酷な子供のままの内面のアンバランスさを強く感じさせた。歌も役柄によく合ったチャーミングさとパワフルさを兼ね備えていて聞き応えがあった。It's not good ideaでワクワクが止まらないわ!みたいなキラキラしたイタズラ顔で歌っているのがとても可愛かった…。

あとStop the heart前に表情の固いロザラインに「目には目をよね!」とくっつくときの不安をカラ元気で覆う感じの言い方、いつも自分をたしなめつつも「あなたが望むなら」と望みを汲んでくれていたロザラインから怒られたことがない王女が初めての状況に戸惑ってる感がとても良かった…。そしてそれらの可愛さが存分に振りまかれたのちに見せる、父王の死を経て子供時代を脱ぎ捨て毅然と顔を上げたときの風格、まさに王女から女王への成長という感じで素敵だった。

キャサリン役・伊波杏樹さんは朗読劇「私の頭の中の消しゴム」(2019、よみうり大手町ホール)で拝見したときに感じた演技の緩急の非常な上手さがまた見られてとてもよかった。年頃の少女らしくケラケラ笑った次の瞬間にはスッと冷たい眼差しに切り替わる、くるくる変わるテンションはクールで皮肉屋なキャラクターでありながらどこかおかしみがあり可愛らしい。あと前回(私の〜)見たのが可憐でふわふわしてでも奥の方に芯がある、という感じだったので、100%クールビューティーなキャサリンの時折見せる氷のような眼差しがあまりにもギャップで良、良ッ…良〜〜!!と思った。キャサリンに見下されたさ、あるよね。

また彼女の台詞にはビローンに負けず劣らず毒のある言い回しが多いのだけれど、前半ではつんとすまして笑いのめす態度でいるのが、クライマックスでロンガヴィルの手を取りながら「頼むから誓わないで。また破られると困るから」というところでは皮肉っぽい台詞の棘を上回る相手への愛おしさが溢れていてとてもグッときた…。セリフとか視線とかもそうなんだけれど、手の取り方がものすごくふわっとやさしいのが全体の雰囲気をやわらかくしていて、ああ本当にロンガヴィルを愛してるなあ…という感じで良かった。

あと全てのオタクは突然のトラブルの際につなぎを入れる演者のアドリブが好きだと思うんだけども、10/19昼公演にて王女の仮面が服にひっかかって取れなくなった際、仮面を取ろうとして王女の周りにガールズ(ボイエット含む)が集まるもなかなか解消せず長丁場になる雰囲気を察知するや「ボイエットぉ、なんとかしなさいよ」といかにもキャサリンっぽい振りを咄嗟に出して、ボイエット役・一色洋平さんと共に場を繋いでいたのが素敵だった。そうだよねそこで最初に言うのはクールで全体を引いて見られるキャサリンだよね…!解釈〜!!と思った。

マライア役・樋口日奈さんはクール系美女が揃ったガールズのなかで唯一のキュート系で、天然な言動が可愛いマライアを好演していた。どのセリフも語尾がはずんでいて、歌声もビジュアル通りお菓子のようにころころと甘くて、もう…可愛い以外の語彙がなくなる…。誰を彼女にしたいか訊かれたら食い気味に「マライア!絶対マライア!!」って言うもの私。人の話をあまり聞いてないところ(「えーっ、こいつらだったの〜?」)も、ちょっと騙されやすそうなところ(「デュメーンは上手いのよ…私に奢らせるの♡」)も全部かわいい。邸宅へ入ることを拒まれ、寝袋を投げつけられて憤るほかのガールズをよそに「モンクレールの寝袋だぁ〜!」とにこにこしながら拾い上げるところなんておっとりしていて超かわいい。仮面を交換しているとき、間違えて求愛してくるロンガヴィルの手をすげなく払ったり、間違えてキャサリンを口説いているデュメーンの後ろで「え?なんで?私は?」みたいな仕草をしてるの(ロンガヴィルにエスコートされて去るときも振り向いたりしている)、本当に可愛い…。初登場シーンでデュメーンに気づいたあとすぐに胸元のリボンを整えるように結び直していたり、去っていくデュメーンの後を追いかけて邸宅に入ろうとしたり(本当に話聞いてなくて可愛い。いや妙な回り道をせず素直に行動しているという点で彼女は正しいのだが)、序盤からすでに恋する女の子のうきうきした感じを漂わせているのが見ていてキュンとする。下手にやるとぶりっこになりそうなキャラクターを、のびのびと愛情ゆたかに育った素直でおっとりしたお嬢様として魅力的に見せるキュートな演技が素晴らしかった。

ロンガヴィル役・入野自由さんには少年・青年役の声をあてているイメージがあって、実際コメディ的なセリフのときにはそこそこ高い声も出されていたのだけれど、歌唱時の声はどのナンバーも深みと張りがあって実に格好良かった。お顔立ちも全体的な立ち振る舞いもとてもスイートでいらっしゃるのに、ワイルドな紳士という役柄に相応しいパワフルな歌とダンスがとても素敵だった。その一方、着ぐるみパジャマを着てスパイダーマンになりきったような動きをしているところや、感情のままに振る舞っている感全開の元気なリアクション(「意地張ってFacebookブロックするのか?」のところでぶんぶん首振るのなんか顕著ですね)や、Prologueで箱にセクシーな女性の写真をしまうのを渋り、デュメーンとビローンに取り上げられるときの最後まで抵抗していたりするちょっとした動きなんかは子リスのようにキュートで、あの四人の中ではかわいがられる系の立ち位置なんだろうな…という感じがして、普段の悪友たちの日常が見えるようで良かった。

あとSonetのタップダンスほんと良かったですね…。検索したら元々特技として挙げていらっしゃるようなのでなるほど流石ですね……という感じでしたが、全体中日(10/16)以降の完成度の上がり方は特にすごかったですね。10/3頃とは聞こえてくる音が段違いに綺麗でとても格好良かった。あと途中から元ネタであるコーラスラインをパロったネタ(「はいオーディション終わりです、お疲れさまでした、結果は後日!」でどさくさにまぎれてデュメーンも帰らせようとするやつ)が入るようになったの、突然デュメーンに乱入されて混乱しつつもなんとか誤魔化そうとする頭の回転が見えるようで良かった。

あんまり言及するのもアレかなとは思うのですが、10/20の歌詞が飛んだときのアドリブが場慣れしていてとても見事で(Sonetの出だしの歌詞が出てこなくて同じところを2回歌った入野さんに伴奏でうまく煽りを入れたオケの素晴らしい仕事、それに「忘れたわけじゃない!」と叫んできっちり応じた入野さんのレスポンスのよさ、そしてその後のデュメーン役・渡辺大輔さんの「歌詞を忘れてるじゃないか」&ナヴァール王役・三浦涼介さんのアドリブ「一人はルネッサンスと叫び、一人は歌詞を忘れた(本来「パラダイスと叫んだ」)」の連携追撃とどこをとっても最高だった)、逆に得した気持ちでめちゃくちゃ笑った。

デュメーン役・渡辺大輔さんは所作が美しくて、指の先の筋肉一本にまでコントロールを行き届かせた優雅な振る舞いがとても素敵だった。Are you a man?でロンガヴィルから「古くさい言葉遣い続けるつもりか?」と歌われるのだけれど、よく聴いているとデュメーンのセリフに使われている言葉だけが特別にクラシカルというわけではなく、それでもあの歌詞に思わず納得するのは仕草のひとつひとつがすみずみまでエレガントだからだろう。現代的な男前でありながらどこかルネサンス期の彫刻を思わせる典雅な風貌と均整のとれたスタイルも相まって、古い血統を脈々と受け継ぐ貴族の子息としての説得力が凄まじい。朗々と響くゆたかな歌声もまた素晴らしかった。高村光太郎とか森鴎外とかの朗読イベントやったら会場が身悶えしそうな艶のあるお声だった…。あの声で「おそれ」とか「人類の泉」とか読んだら相当セクシーだと思うんですが。

それから今作もっと自由にセリフで遊んでいらしたのは渡辺さんではなかったろうか。細かい部分のセリフが聞くたびに変わるので、しかも毎回しっかり面白いので笑ってしまう(ガールズの前に我先に出てくるときのナヴァール王に対するセリフとか、あとセリフではないけれど途中からビローンに誓いを破ったと責められるときに上目遣いで笛吹くようになったのもはや反則…)。Sonetの前のエチュードはバンドとの打ち合わせなしで行っているマジのぶっつけ本番(男子会トークショーより)と聞いて、それであれができる対応力の高さ一体何…!?と思った。対応しきれない曲のときもバンドにツッコミを入れまくって処理しているの本当に凄い…。観た中で一番好きだったのは巨人の星の回です。最後にぶっ倒れるところで「バットなんか…振るから…」と呟いたのめちゃくちゃ笑った。

ナヴァール王ファーディナンド役・三浦涼介さんはお噂はかねがね…というか…生で見ても信じられないくらいどう見ても作画が萩尾望都だったので月並みな感想で恐縮だが「すっげえ…絵画が動いてる…」と思ってしまった。まばたきするたびに薔薇の香りが漂いそうだったし、主食は月光ですと言われても「ああ、なるほど…」と納得する美貌だった。そしてそのビジュアルで演じるのがいかにも箱にしまわれて大切に育てられました感全開のナヴァール王なのだからキャスティングで殺しにきた感じがすごい。歌声も…手持ちの言葉では届きようのない麗しさだったのでもう形容するのは諦めますが、大変良かったです。投げやりとかではなくて本当にどう書いても「不敬」の二文字がよぎるのですみません(声というのは役者の研鑽の成果物なので、天与のもののような書き方をするのは侮辱にあたると思うのだけれど、どうしても「神の祝福」のような表現を使いたくなるので全部カット)。

ナヴァール王の立ち振舞いはどの場面でもエレガントだったのだけれど、跪くシーンだけはあまりサマになっていないのがまた凄かった。もちろんポーズ自体は美しく決まっているのだけれど、脚が長すぎてどこか収まりが悪いのがいかにも「跪くためではなく跪かせるために生まれてきた男」という感じで、肉体の作りから違う天性の王だ…と思った。だからこそ初めて恋のため、不器用に膝をつく姿からは真摯な愛を感じる。ちなみに「これ以上恥をかかせる気か」と言って机の上で膝を抱えているときはそこまでアンバランスな感じはしない(脚の「折りたたまれている!」感はものすごいが)ので、やはり跪く姿はすこし重心かなにかわざと崩していたのではないかと思うがあまりに美しかったので細部まで観察できておらずよくわからない。

一方、威厳を必要としない場面での口調は分け隔てなく優しかったり(庶民であるコスタードやジャケネッタにも優しい声でおっとりと話しかけている。またSonetのときの振る舞いは役よりは御本人に寄っているのかとは思うが「椅子借りていいですか、ありがとうございます」から始まり深々とお辞儀をして終わるときの、なんというか、必要に駆られての虚礼ではなくすべてに心のこもった所作であるな…という感じが人柄を感じてとても良かった)、ピンポンダッシュを警戒して窓から様子を確認したのちフランス王女だと分かるやいなや格好良く出てくるコミカルな一面を見せるなど、気持ちの優しいぽわんとしたお坊ちゃま感を存分に振りまいていた。優雅なオンとやわらかなオフのギャップが素晴らしかった…。

あと本編ではないのですが、トークショーの天然炸裂ぶりに「このビジュアルにこの中身、完全に世界から愛されるために生まれてきたな…」と思いました。「豆って結構豆だよ」、言いたいことは話の流れでわかるのだけれどパワーフレーズすぎて味噌汁とか飲むとたまに思い出してフフッてなる。

ジャケネッタ役・田村芽実さんはTRUMPシリーズで観て(全部借りたDVDだったので生は初めてですが。あまりにも良かったのでマリーゴールドは借りたあと自分でも購入した)とてもお芝居と歌の上手い方だ…と思っていたので今回観るのを楽しみにしていたし、期待以上の生歌の迫力にはおお…!となった。どの曲も良かったけれどLove's a gunの魅せる歌声がとても良かった…。後方席の日はオペラグラスを使って細かい表情などを見ようと思っているのだけれど、Love's a gunのときはあまりにも立ち姿から美しかったのでオペラグラスを下ろしてしまった。ミュージカルというよりもどこか歌謡曲めいた湿度のある歌い上げ方は、正負混ざった情念のこもる魂の歌声という感じがした。ステージの中央に立ったまま身一つで空間すべてを支配していて、これが…ハロプロで鍛えた人間の力なのか…!と思った。セリフがある部分の良さは言うまでもなく、立ち姿ひとつで生きている環境に対する諦念を見せたり、ちょっとした仕草で希望から失望への動きを出したりと、セリフのないところの芝居も抜群に上手かった。好きなのがホロファニーズ先生に手紙を読んでもらいに来るシーンで、もらったラブレターが自分宛てではなく誤配だったとわかったあと、身体を重たげに引きずりながらマイクを取りにゆくところ。いつもどこか気だるげなジャケネッタだけれど、この場面では期待したのと同じだけの失望が彼女の身体にまとわりついているのが確かに見える。そこで初めて、数分前にコスタードと共に出てきたときのジャケネッタは、いつもと同じ態度のようでいて実は柄にもなく浮かれていたのだと分かる。そんな時間差で効く芝居の仕方ある!?

あと本編ではないのだけれど開幕前に舞台上で踊って待ってるときの仕草がめちゃくちゃにかわいい…。待機中に客席から「ジャケネッター!」と女性のファンの方に名前を呼ばれたことがあって、ニコニコしながら手を振ったり機嫌よく踊ったり(機嫌の良し悪しがあの気だるげなダンスからちゃんと立ち上るの本当に素敵)していてめちゃくちゃかわいかったな……。そうなんだよ、田村さんあんなに可愛いのに(インタビュー動画の「めいめいで~す!」だけで胸を撃ち抜かれたよ)ジャケネッタのときは別人のようにビターで、板の上にまぼろしを観に来ているタイプのオタクとしてはたまらなかった……。そこにしか生きていない人間がその瞬間そこに確かに立っているのを観せてくれる役者さん大好き。

アーマード役・大山真志さんは男子会トークショーで「(自分は)飛び道具」「毎日受け入れてもらえるかドキドキしながら舞台に立っている」と仰っていたのだけれど、かなりの難役であろうアーマードを快演なさっている姿からそんな雰囲気は微塵も感じない。アーマードはコメディリリーフであると同時にいい男でなくてはならない。抜群にいい女のジャケネッタが惚れるに値する抜群にいい男でなくてはならないのだから。かっこいいだけでも面白いだけでもだめで、しかも相手が堂々たるいい女の田村ジャケネッタなのだが、その高いハードルを超える素晴らしいアーマードである。あの…なんというか…そう、非常に直截的な表現でリビドーを包み隠さず叩きつける歌詞の多いアーマードのソロは、生半可な歌唱力ではいたずらに猥褻なだけで場が冷えるだろう。歌詞がアレなのに歌が情熱的にうますぎる、というギャップによる可笑しさを出し、場面を成立させられるかどうかは役者の歌唱力ひとつにかかっているわけで、ある意味ではこの作品でもっとも力量を求められる役柄なのではないか。アーマードが滑ったら本当に悲惨だろうから、安定して爆笑を掻っ攫い喜劇に仕上げてくれる素晴らしい役者がいることは作品の幸福であると思う。ホント何回見ても笑うもんなアナコンダとか…。

スペイン風発音の表現であろう独特の口調もはじめは少々うさんくさいというか面白さ寄りなのだけれど、劇が進んでゆくにつれアーマードにぴったりの情熱的な雰囲気を醸し出していることに気づかされる。また作中ではビローンやホロファニーズなどにたびたび軽んじられ馬鹿にされている彼だが、傷つくことを恐れず勇敢に思いを伝え、相手との身分差を認めながらもひたむきに求愛する姿はとても美しい。「恋にしか興味のない男」と言われるほどの情熱家である彼が、Tuba songでジャケネッタからのくちづけを受けたとき、にわかには信じられないというような顔で目を見開いているのがとても好きだ。散々むき出しのあれやこれやを見せているアーマードは、まあ、愛とか恋とか言ってみたって結局はそういうことだよな…欲望というのはな…と笑いを誘う。だからこそ、Tuba songで初恋を叶えた少年のような顔で驚く姿を見せられたとき、恋というのは欲望の単なる包み紙ではなく、それそのものが独立したひとつの美しい感情であるということを思い出させられる。素晴らしい名演だった。

真面目な話だけだとなんか片手落ちのような気がするので書いておこう、一番笑うのはJaquenettaのジョーズ(たまにやってた葉加瀬太郎のほうが髪型と合わさってめちゃめちゃツボるんだけどランダムなのかしら)からの流れです。あと腹太鼓あれ卑怯じゃないですか最早。いや役者の持ってる資質の活かし方!!と思った。

モス役・石川新太さんはある意味アーマード以上に問題のある歌詞をキュートに歌いあげていて素敵だった。I love catsは「よく聞いたらこの人なんかやべえこと言ってないか…?」という戸惑いを歌のうまさと可愛らしさで流させる力が必要な曲だと思うのだけれど、見事な歌唱力で押し切っていて素晴らしかった。なにかを好きだって感情は外から見ると狂気に似ているよね、そうだね、相手がねこでも人でも変わらんよね…と何かわからないが納得してしまった。

男性に対してあまり褒め言葉ではないかなと思って他の項では一応避けたんだけどもう無理、モスくんに「かわいい」以外一体なにを言えばよいの。時折付き合いきれない…とでも言いたげな態度をとりつつも、基本的にはご主人さまに付き従うちょこちょこした姿が愛くるしかった。ついてこいと言われれば「はぁい、どこまでも♪」と可愛らしく応じ、ド下ネタソングに美しいコーラスを入れ、客席のテンションをうまく操り、多才な楽器演奏で曲を盛り上げる有能さよ…。Tuba songのラストで出てくるねこに飛びついたり腕のモフモフした毛皮に頬ずりしたりするときの心底幸せそうなめろめろ顔は大変キュートだった。

また下々の者(コスタードはともかくオケが「下々」なのかというのは一旦置いておく)に対する清々しい豹変っぷりも良かった。好きなんですよね、コスタードに対してめちゃくちゃ当たりの強いモス……。アーマードに応じるときのきゅるきゅるした小動物ボイスから一転、「オイコルァ!コスタードォォ!早よ来いやジャンキー野郎こんボケェ」とアレッここプリズンホテルだったっけ…?みたいな巻き舌になるの、少女漫画の王子様みたいな線の細さと甘いマスクであんなドスの効いた声出すギャップで笑ってしまう…。

ボイエット役・一色洋平さんは麗しい歌唱は言うまでもなく、動きの美しさが素晴らしかった。メインでスポットライトが当たっているときのみならず、歌いながらのちょっとしたターンや跳躍でも思わず目を奪われるきびきびした抜群の制動で、どの瞬間を切り取っても一枚絵として美しく決まっていそうな姿に見惚れた。挙措は貴族の従者らしくエレガントなのに、いやエレガントが行き過ぎた結果なのだろうか(勿論、役柄として必要とされるがゆえの過剰さである)、どことなくコミカルさが漂い要所要所に笑いの華を添えている。ストレートにオーバーアクションで笑いを取るシーンもあるけれど、どちらかというと「私の寝袋は…?」と抗議して無視されていたり、ガールズに女子顔で混ざったりしているようなさりげない場面の上手さが光っていた。どことなくフェミニンな色香の漂うお顔立ちだからなのか、意外とうまくガールズに混ざれてるのがまた絶妙で良かった……。

Tuba songで「この仕事辞めたい!」と叫ぶのも頷ける、苦労の絶えないボイエットではあるけれど(フランス王女がノリノリで窓ガラスを銃撃してるときに「戦争!戦争になるッッ!」と抑えめのボリュームながら悲鳴を上げているの、「王女の暴挙に悲鳴は上げたい」「でもナヴァール王が就寝しているだろう夜遅くに大声で騒ぐとそれはそれで問題になる」という苦悩がにじんでいて、ああ…この人いつもこういう目に遭ってるんだろうな…感がすごい)訃報と共に「貴方が新しいフランスの女王となるのです」と告げるときの声からは、つらいニュースに接して動揺している王女への忠義と愛情が溢れている。しっかりしてください、と茫然としている主人を叱咤する響きと、父を亡くした少女に寄り添い励ますような温かみが両立していて、結局は彼も口で言うほどこの仕事が嫌いではないのだろうと感じさせる。

また本編からは離れるのだけれど、ツイッターに上がっている出演者インタビュー動画でインタビュアーをなさっていて、これを何人もやるなんて大変だな…と思っていたら動画編集までなさっていてどこにそんな時間が!?と思った(しかもクォリティがえらく高い)。多才すぎるでしょう……。東宝公式ツイッターで上がっているぶんはどれも楽しく拝見した。素晴らしい動画を本当にありがとうございます……。

ダル役・加藤潤一さんは以前拝見したのが「RENT」のコリンズだったのだが、ああいう人を食ったタイプの軽快な人の悪さが出せるにもかかわらず(そして軽快に人が悪いタイプのダルも充分アリの範囲ではないかと思うのだが)、ダル役ではむっつりとふてくされているのが、役の人生に巧みに寄り添っていてつくづく感じ入る(コリンズも貧しいが、大学教員として容易に転職ができるだけの武器と、世の理不尽を笑いに変えられるウィットがある。ダルは後述するがおそらく転職は困難な層で、怒りを怒りのままどうすることもできず石のように抱いている)。わりと寡黙な役柄なのだけれど、そのぶんセリフのひとつひとつが強い。ビローンたちのセリフのような軽快でするどい棘ではなく、上流階級に対する怒りと嫌悪でぼこぼこに膨れたような生っぽい手ざわりがある。それでいて職務はけっこう真面目にこなしていて、たとえばホロファニーズがジャケネッタに頼まれて手紙を読もうとするところではすかさず懐中電灯で手元を照らすような細やかな気遣いができるキャラクターなのが非常に心を掴まれる。客席に降りているときのコスタードや客とのやりとりが(おそらくは御本人の素に近い)温厚で朗らかな対応なのと相まって、本当はこういう優しくて親切な人柄なんだろうな、ダル……と思いを馳せてしまう。

あとLLLで一番好きな曲がRich peopleなのだけれど、「もう音程だって取れてない!」のところ、外し方が毎回違うラフさなのめっっっちゃくちゃかっこよくないですか。かっこいい(断定)。観られるひとはそこの比較のためにもぜひ複数回観てほしい(愛知公演まだ取れるらしいですよ)。

感想とあんまり関係ないけど個人的な心残りの話していいですか?開演前のドリンク販売、一回加藤さんから買えたんですが、完全に「うおおおおやべえやべえコリンズやんけやっべええカッコいいやった握手しちゃった!!!!」しか考えてなくてぜんぜんおもろいこと言えなかったのが心残りです。「うわはァ…(「メロンソーダしかないけどいい?」と訊かれて)ああぁうわぁぜんぜんいいですぅわあぁやったあぁ」みたいな感じになってしまってかえすがえすも残念…。というか書き起こしてみると本当に私のリアクション限界すぎますね。

ホロファニーズ役・木村花代さんは声から感じる知性と官能的ですらある艶が大変麗しかった。私に学がないものでホロファニーズのセリフは聞き取れないところも多かったのだけれど(音自体ははっきり聞こえるのだけれど、ラテン語に聞き覚えがないので空耳アワー状態で…)雰囲気だけでもナサニエルが悶えるエロティックさの説得力が凄まじかった。気品漂う清楚なお顔立ちでのびのびと下ネタを繰り出したり、ニヤニヤしながらコスタードとつつき合って歓声をあげて走っていくギャップの破壊力よ……。あのシーン、コスタードとの視線の絡み方が結構セクシーですよね。すげぇ!役者ってそんなとこでもエロさ出せんの!?と思った。♡ホロファニーズ先生♡こっち見つめて♡(応援うちわ)

ホロファニーズ&ナサニエルは浮世離れした学究の徒たちの滑稽さを見せる役柄だと思っているのだけれど、本来「何言ってんだろうこの人」となるべきであろうシーンでも、次々にラテン語や詩的なフレーズを歌うように繰り出す姿があまりに蠱惑的で思わずアッ♡そんな♡いけませんよ先生…♡という気持ちになってしまう。ナサニエルが恋する気持ちめっちゃわかる……。あと個人的な、本当に個人的な好みの話なんですけど、メガネっ娘なのマジ最高すぎて。生まれながらにして高い位置から当たり前のように見下ろしてくるフランス王女御一行様とはまた違う、知性に由来する視線の高さと眼鏡の親和性がパーフェクトだった。

あと本編ではないのだけれどプレゼント抽選回で毎回「にゃん♪」と言いながらクジ引いてたのが可愛すぎてなにそれ!!??思った。I love catのジェリクルキャッツ〜のところで出てくるのと同様、ご自身の経歴に由来しているのでしょうけれど、一見堅物っぽいホロファニーズの姿でそんなお茶目なことされたらキュンとしてしまう…。

ナサニエル役・ひのあらたさんはどこからどう見ても学識ある誇り高き紳士にしか見えないビジュアルから繰り出される、ホロファニーズの言葉に狂おしく身悶えるリアクションの、えー、ええと、……そう、フェティッシュな色気が素晴らしかった(言葉がやや遠い気がするが、ちゃんと褒め言葉として選んでいることが伝わる範囲の単語を使おうとするとこれが限界だった。いい意味で!とか、褒め言葉ですよ!とかつけても、あの、ちょっと、さすがに言いづらい単語しか出てこなくて…そういうところがとても魅力的なキャラクターだと思うし好きなんですが…)。ホロファニーズと出会って狂わされたのか、それとも元々のフェチにブッ刺さった女神がホロファニーズだったのか。それにしても「しかし九人の英雄を演じられるような役者が果たして揃うでしょうか?」と後ろからホロファニーズの肩を抱くときや「お嬢さん、鹿の死を弔う歌をご一緒に」とジャケネッタを誘うときなどの渋くてダンディなバリトンボイスと、ホロファニーズに次々言葉を浴びせられて「あっ♡あっ♡♡」と甘くよろめくときのなまめかしい吐息、形容する単語をひとつ選ぶなら双方「セクシー」で間違いなかろうと思うのだけれど、なんというか、その、そんな両極端なセクシー、普通併せ持てる…!?

インタビュー動画で「若者の恋愛とはひと味違うちょっと捻れたアダルトな恋愛を見せる」と仰っていて、たしかにまあ、ええと、非常にフェティッシュな悦びを得てはいるのだけれど。でも恋うている相手の囁きに身をよじり、聞き惚れ、陶酔するさまは、どうしようもなく抑えがたいパワーに突き動かされる、人を愛したときのあの身体的な感覚(走り出したくなるような、ふと歌がくちびるを衝くような、精神が自分の肉体に強く作用していることを実感させられるあの衝動)を美しく官能的に表現していて、年齢は違えども恋する男という点ではボーイズと通じ合うような何かをもっているのだ、と感じる。

18禁系および卑罵語にとられかねない単語をうっかり使わないよう非常に気を遣ったのでちょっと奥歯に物の挟まったような言い回しばかりになり申し訳ないのですが、普段「やばい!限界!無理!」くらいの単語だけで会話をしているので表現の残弾がなくこれ以上は厳しいです。ナサニエルあまりにもセクシーなので語彙が限界で無理。

 

そして推しなので贔屓目抜きの評価というのはどう考えても無理なんだけれど。

ビローン役・村井良大さんがとても良かった。村井さんが明るい曲調のものをのびやかに歌っているのが好きなので(RENTのWhat your ownとかYGCBの最初の曲とか初恋探しの…曲名わからないけど特急降りたときのヒロインとのデュエットのやつとか)、Young menもAre you a Man?もChange of heartもめちゃくちゃよかった、とくにAre you a Man?がとてもよかった…。英語版聴きすぎて日本語歌詞のほう忘れたんだけれど原詞でいうと"Or for women's sake, by whom we men are men!"とか"Our learning will surely make us men!”のところの声の伸びが最高でしたね…。あとChange of heartだと「しょぼくれた世界に光を当てたのはきみだ!」のあたりとかめちゃめちゃいい…。あまりによすぎたので英語版だけどiTunesでアルバム買ってしまった。

村井さんの発声はあまりミュージカルミュージカルしてないなと個人的には感じる(出演なさるのが大体ロックミュージカル系だからかもしれないが)。声も歌い出しもセリフと地続きのような印象があって、だからだろうか、いわゆる「ミュージカルってなんか突然歌い出すじゃん」的な唐突感がない。自然な感情の流れがセリフではなく歌になっているだけ(というか、歌でありながら同時にセリフである)という感じがしてとても好きだ。これから観劇するかたで上記の内容がいまいちピンとこない場合、序盤で歌うYoung menがとてもわかりやすいと思うので聴いてみて欲しい。「隠された知識!を、求めている」(セリフ)の「いる」あたりからさりげなく歌のベースに入って、セリフの続きのようなトーンで「♪男は女を抱く」の「男は」に接続するところ、めちゃめちゃ滑らかだ。呼吸がセリフ向けから歌向けに切り替わったように聞こえないのも一因ではないのかなと思うけれどまあ技術的な話はわからんのであんまり真に受けないで欲しい、とりあえず歌がうまいから聴いて欲しい…。Young menだとあと「ぼくらの時代だ!」で後ろにふわっと跳ぶときの漫画みたいな無重力感もぜひ見てほしい。かっこいいので。

役柄も、きつい冗談で人を茶化したり混ぜっ返したりするわりに不思議と憎めない男、という感じが似合っていた。「分別なんてクソ食らえ、大人になんてならない」と堂々と歌う学生気分の抜けきらないビローンの悪ガキ感がとても軽妙で、皮肉の応酬がしばしば見られる作品の中でも一、二を争う口の悪さと人を笑いのめす態度に、それでもどこか品のよさを漂わせているのが上流階級の子息らしさを感じて良かった。それぞれがソネットを披露したあとの場面で他三人の恋に浮かされた行動をからかいまくるときの、あの…ええと…ごめん言葉を選びきれないので言ってしまうとものすごく憎たらしいおちょくり方と顔芸が本当にイキイキしていて好きだ。しゅんとする友人たちを一方的にからかいまくるビローンの姿には時代や階級が違っても変わらない、気のおけない友人同士のリラックスしたやりとりを感じる。「薬探してきましょうか〜〜?」をあれほど憎ったらしく言える村井さん、もうビローンをやるために生まれてきたのではないか…。最高…。そのあとの「コスタ〜〜ド??」「アァー↑イ!」「どこまで使えないヤツなんだ、俺に恥をかかせるために生まれてきたとしか思えない!」のやりとりと、そのあとの豹変のところも庶民に対するナチュラルな階層意識を感じて(役柄に、ということです、念のため)本当に最高。あとラストシーンでロザラインにくちづけようとして、それをやめて愛しげに微笑みながら額をくっつけあうところ、最高ですよね。ビローンがロザラインの愛を勝ち取るための12ヶ月はもう始まっていて、彼らがそうするのは12ヶ月後であるべきで、だからいまできる最大限の愛情表現を交わし合う、というシーンだと思うのだけれど、オタクは…いや、主語をむやみに広げるのはやめよう、私はそういうのがとても好きなんだ。性癖(推し俳優)と性癖(気の強そうな美女)と性癖(抑制されたがゆえにかえって愛があふれる感情表現)のトリプルアタックでもう…最高に好き…(同じ理由で投げキッスを交わし合ってるデュメーン&マライアも可愛すぎて呻く)。早く赤飯を炊かせてくれ。まったく12ヶ月は長すぎる。

村井さんはどんな役をやっていてもいい意味の情けなさというか、さびしさというか、弱さのようなものが奥底にかすかにあると感じる。それはやさしさと根を同じくするもので、演じる役柄によってそのやさしさが自分に向いたり他人に向いたりはあるものの、その気配は常にあって、そういうところがとても好きだ(それが顕著だと思うのは再演版真田十勇士根津甚八役で、常に突っ張っていなければ折れてしまいそうだった初演の福士甚八と比べると、村井甚八は御三家の中で根津だけが没落した運命の理不尽さに怒っているのではなく、没落してなお「根津」という名前から逃れられない苦しさのなかにいるような感じがした。でももう記憶も遠くなっているのでまた見たいなあ*1)。LLLでいうと、To be with you前の「待ってよ!」の言い方や、「愛しいきみよ、私はここにある」以降には特にそういう気配を色濃く感じるけれど、それよりも前の、Change my heart前にひとりで出てきて煙草を喫おうとするところや、Are you a man?でも私はなんとなくさびしい(とても明るくきらきらした曲なのだけれど。でも青春時代というのは、恋をしていてもしていなくてもなんとなく明るくてきらきらしていて、でもいつもどこかに「このままではいられない」という別離の気配のようなものがないだろうか、ああいう感じがするのだ)。ビローンは、まあ、あの、言ってはなんだけれど、事あるごとに金で解決しようとするきらいがあるし(好意的にいえば気前がいい)、庶民層をあんまり人間だと思っていなさそうな男(扱いが一貫しているフランス勢や、露骨に見下しているモスよりも、自分の利害によって優しく声をかけたりきつく当たったりするビローンのほうがより残酷で、そのことに対する無自覚さがとても最高)なんだけれど、そういうちょっとアレな部分があってなお恋愛を応援したくなる魅力的なビローンでいてくれるのは、ほのかなさびしさが見え隠れしているからではないかと思う。

しかしTo be with youの前後の美しさ、ちょっと前に「俺が恋の詩を書いたりしますかァァ~~??」と顔芸全開で友人たちを煽っていたのと同一人物なのが信じられないくらいの悄然とした美青年ぶりで本当にどういうことなんだろうと思う。村井良大もしかして分業制じゃないのか?五人くらいでやってるんじゃないか?ところが一人なんだよな……。どういうことなんだろうな……。

それからこれは完全に言いがかりというかオタクの妄言なのですが、他の悪友たち3人が白と黒のシャツなのに一人だけ汗の目立つ紫のシャツを着ている村井さん、衣装を選んだスタッフの「絶対にこの発汗量をオタクたちの網膜に届ける」というフェティッシュな使命感を感じました。ビッシャビシャになってる推しを見ると「推し、生きてる…!もしかして…肉体が、あるのか…!?」と思ってとてもうれしくなるのでよかったです(ときどき「推し、最高すぎるな…もしかして架空の存在では…?」と思ってしまうタイプのオタク)。遠目(シアタークリエの21列)からでもわかるくらいビッシャビシャでしたね、シャツ。

 

というわけでシェイクスピア喜劇おもしろかったな!推しは最高だった!!で終わるはずだった。

はずだったんだ。

 

 

みんな、おまたせ!

コスタードの話をするぞ!!

 

 

まずはコスタードの話を聞きにきた人向けに、コスタード役・遠山裕介さんほんと最高だよねという話をしようと思う。

なんといってもビジュアルがめちゃくちゃいいよね、コスタード。笑顔がキュートで身体から太陽の匂いがしそうなチャラいイケメン。声も喋り方も洋画の軽薄な男前みたいですごく役に合っていて素晴らしい(勿論役者さんですから役に合わせて声のイメージをチューニングなさっているのでしょう)。原典(ピレネー山脈沿い)と違ってアメリカの高級リゾート地が舞台になっているとのことなので(パンフレットより)、その日差しを浴びて育った男としての佇まいの説得力が最高だな……と思う。立ってるだけで太陽みたいな男、コスタード……。ジャケネッタとタンゴ(でいいのかなJaquenettaのときのやつ)を踊ってるときにこう、背中合わせになるところあるじゃないですか、少し俯いてゆっくり腕下ろしていくところのカッコよさ最高じゃないですか。見ました?カッコいいよねあれ。

プール掃除してるときとかカルーアミルク作るときの傷んでる牛乳をまぁいいか!と注いでビローンが気がつくかどうか窺ってるときとか(あれで気がつかないビローンどんだけ浮かれてるんだろう)ノリノリで自分も酒作って飲んでる(シャンパンより前の一杯勝手に伝票つけてない?)のとか後ろで無言で動いてるときの仕草がつねにゴキゲンでキュートで見てるとついニコニコしてしまう。いちばん好きなのはChange of heartでシャンパン飲んで機嫌良くプール(あの場面では風呂扱いではないと思う)に入ってパシャパシャ遊んでるところ。回によるのか変えたのかわからないんですが、ビローンに水かけられるより前、ひとりで入ってる時点でコスタードが両手で水すくって投げ上げて散らした飛沫を自分で浴びてる回なかったですかね(濡らした手で髪をかきあげてる方がよく見た気がしますが)、アレが幻覚ではなく回によってはあったという前提で話を進めますが、自分で散らした飛沫を見上げるコスタードの視界はきっと降り注ぐ水滴にライトが当たってキラキラ輝いてるんだろうなと思うとなんかもうたまんない気持ちになるんですよね。どうして!どうしてそういうことをするの!!ってなる。

あと歌唱がまたいいですね……。音楽用語がマジでわからないのでなんとなく雰囲気で聞いてほしいんですが、歌声のこう…何ていうのか…あの声の揺れ…わかるでしょ…あれめちゃくちゃいいですよね…。バーでスタンドマイクにもたれながら妖艶に歌ってるコスタード実在する…。見たことある…(幻覚)。「Rich people 思ってる オレのことゴミクズと!」のところの色っぽさを失わないまま悲痛に歌い上げる感じ、最高にコスタードでめちゃくちゃ好き……。

遠山さんのツイッターに上がっている弾き語り動画とかだと声がもうちょっと甘くやさしい感じだったので(見た動画の選曲がそういう感じだったからかもしれないですが)Rich peopleを歌ってるときのあれはやっぱりコスタードの歌声なんだ…。コスタードは実在するんだよ!!!

 

コスタードの話になったら急に正気を失った。落ち着こう。三点リーダがめちゃくちゃ増えてるのオタク限界しぐさすぎるのでもう少しハキハキいこうか。

私は良い舞台の素晴らしい役を観ると「ああ、これ、推しもこういうのやってくれんかな…」と思ってしまうのだけれど*2、村井さんにコスタードをやって欲しいとは思わなかった。ビローン役がとてもハマっているというのもあるけれど、前述したように私は村井さんの弱さのようなものの気配がする演技がとても好きで、でもコスタード役にそういう部分があると絶対にノイズになると思うのだ。

遠山さんのコスタードにはそういう部分がない。さながらクリアに澄みきった八月の光、肌を焦がして海へと走らせる夏の日のかけらである。コスタードが燦々と輝く陽の光のような男であることはLLLの構造にとって重要なピースなので、本当に素晴らしく罪深い演じ方であることよな…と思う。遠山さんがもし少しでも弱さの見えるキャラクターの作り方をしていたら、私は致命傷を免れていた。こんなアホみたいに長い記事を書くほど正気を失ったりしなかった。べつに役者はオタクの正気を失わせるために舞台やってるわけじゃないから完全な当たり屋発言なのだけれど。

陰がないというのは演技に深みがないということでは断じてなくて、コスタードという男が所属する階層におけるある種の人間のありかたを表現しきっているという意味である。自らの人生に対して諦観を抱くジャケネッタにも、理不尽を甘受せねばならない暮らしに怒りを抱くダルにも、それまでの過去を、そして未来への感情をもって生きていることを感じる。しかしコスタードに過去はなく、未来もない。彼はいまこのとき、この場所にしか生きていない(役者の演技に過去を感じられる奥行きがない、というのではなく、コスタードがそういう人間であることをこのうえなく上手く生きている、という意味です。御本人はちゃんと考えてらっしゃると思う)。彼にとって世界はいま・ここしかなくて、だからこそどこまでも明るい。そんな人間をひとしずくの湿り気も混じらせずに演じている美しさよ……。

キャラクターについてどの程度どういう指導が入っているのか分からないのだけれど、Tuba songでハケるときに脱帽するのが(私の見た範囲では)コスタードだけなのがものすごく好きだ。前後の動きからするにおそらく詳しい状況は把握できていなさそうなコスタードが、悲しみに暮れているフランス王女の姿を見て戸惑いつつも帽子を脱ぐのがグッとくる。コスタードはわからないなりに周りのテンションを見て合わせているんだろうなというシーンがいくつかあって(「ピザハット~!」とか「チューバ!」とか話の流れぜんぜんわかってなくてとりあえずノッてるだろうきみ、という感じがする)、でもTuba songでの脱帽は他の誰も行っておらずコスタードだけがやっているところから、はっきりとは分かっていなくても「帽子を脱ぐ」という動作が空気と結び付けられる程度にはそういう場を経験してきたこと、そして他人の感情の動きに決して鈍感ではないことがわかる。

 

あとこれはコスタード激推しオタクとして遠山さん最高だ…ありがとうございます…!となったポイントの話ですが、「コスタードであること」を徹底していらっしゃるんですよね。私は客が金を払っている部分は板の上の本編だけだと認識しているので、開幕前の客席降りやSNS関係(インタビュー動画とか一部ツイートとか)がコスタードではなく遠山さんであっても別におかしなことではなかろうと思っているんですが、客席でファンの方に声をかけられても基本的に「コスタード」として接していらっしゃるので、限られた時間しか存在しないコスタードという男に沼ってしまった人間からすれば本当に有り難いの一言に尽きますね…。「遠山さんってだれ?オレ、コスタード!よろしく!」と客席で言っているのを観るのが本当に好きでした……*3

客席を歩き回っているときのお客さんとの絡みで「誰観に来たの?誰でもないの?じゃあオレのこと観に来たって言ってよ。どうして顔覆っちゃうの?顔見せて」って口説いてるのを見たときはウワーーッ実在性コスタードウワーーッ!!!と思いながら内心で拝んでいました。完全に海辺でナンパしてるコスタードだった……。見たことある、見たわ、ビーチに犬の散歩しにいくとあの色男がナンパしてるのいつも見かけるんだよな(幻覚)。

 

 

ここで話は一段落。

万が一この記事にたどり着いてしまった遠山さんファンの方がいらっしゃったら、ここまで読んだら帰ってほんとに大丈夫です。お疲れさまでした。

この先でもコスタードのことはめちゃくちゃ褒めるし語りますが、観劇後の後味が悪くなるおそれがあるため、LLLを「ポップでキュートでスカッと笑って軽く見て楽しく終われるラブコメ」と捉えたまま観終わりたい場合、このさきは絶対に読まないほうがよいです。 

不条理文学とかディストピアSFとかスリップストリームとかが好きで読んでるタイプの人はたぶん大丈夫です。そういう人間が書いている記事なので。

 

 

ここから先はラヴズ・レイバーズ・ロストがラブコメディで覆い隠した下の構造について、コスタードに関するトピックを中心に据えながら「ミュージカル作者の性格が悪くて最高だよね」という話をするので、「性格悪い」「地獄」「人の心がないのでは」などが褒め言葉に聞こえないまっとうな感性の方にはまったくおすすめできない内容となっている(※役者に対する一切のdis及びキャラクターに対する不必要なdisはないものの、作品について語る上で必要な言及の範囲であってもキャラクターに対しての「愚か」「傲慢」「スノッブ」などの表現が許容できない場合、読み進めるのは本当におすすめできない)。LLLの一から十までネタバレ及びギミックバレするので、万が一再演などで事前に予習がしたいという理由でこの記事に辿り着いた場合このさきはおすすめしない。あと巻き込み事故としてアルベール・カミュの「転落」もネタバレ及びギミックバレする。なんで?と聞かれたら私の説明力不足を補うためとしか言いようがないので申し訳ない。

私の感想を端的に言うと「LLLは実質カミュの「転落」と同じ構造に感じるんだけど、そのガイド役にダルとジャケネッタはまだしもコスタードみたいな男が採用されてるの完全に悪意しか感じなくて最高だし、開幕前のドリンク販売はクリエ限定らしいけど偶然が噛み合った結果更なる地獄が生まれてて気が狂いそうなくらい良いよね…」です。いまの説明でわかった人も帰って大丈夫です。いまのひとことをめちゃくちゃな文字数使ってしゃべるだけなので。

 

なお、本記事においてはコスタードのTuba songにおける「入りたい健康保険!」を根拠に、コスタード、および彼と立ち位置の近いダル、ジャケネッタの三人を「貧困層」として扱う。作中では「庶民」というワードしか出てこないが、「メディケイド対象にはならない程度の収入はあるが保険料が払えない」という無保険の若年者が、「年収が3万ドルに満たない人間が全所得者の約半数(2012年)」という状況で年収3万ドルを超えているとは考え難い。また2012年の公的貧困ラインは約12000ドル*4だが、アメリカの公的貧困ラインは「地域差を考慮しない一般的な食費の3倍」で定められているため低くなる傾向があり、自立した生活に必要な最低生活費は少なくともその2倍以上との指摘がされていることから、「12000ドル以上30000ドル以下」と推定される年収では、物価が高いと思われる高級リゾート地においては生活に余裕があるとは言いがたいのではと思う(参考データが2012年のものなのは、初演が2013年の作品なので、脚本を書かれた時期の感覚としてはそのあたりでいいだろうという考えから)。

 

 

先に物語の解釈というものについての断りを入れておきたい。そのために舞台「ピカソアインシュタイン」(2019、よみうり大手町ホール)の画商サゴのセリフを引用しよう。彼は仕入れた絵のどこが素晴らしいのか問われ、「額縁があることだ」と答える。これは人を食ったジョークではなく、風景や人物が切り取られ、額縁の中におさめられることではじめて「絵」となり、美を生み出すことを指している。また同作中にてピカソアインシュタインに対し「(君の研究は絵でいうところの額縁のように)世界に新しい見方を与え、まだ見たことのない美を作り出すもの」だと言う。

物語の解釈とはその額縁のようなものである。それぞれの解釈という額縁は、あくまで物語の見方のひとつでしかない。だから私の見た美とあなたの見た美が違うのはむしろ自然なことである。私の額縁とあなたの額縁は物語を違うように切り取るかもしれないが、お互いの額縁の価値、そして物語自体の価値はそれぞれに傷つけられも失われもしない。

私の額縁はあなたにとって美しくないかもしれない。とるに足りない稚拙なものかもしれない。あるいはおぞましく冒瀆的な唾棄すべきものであるかもしれない。そうであれば不幸な邂逅を申し訳なく思うが、私の額縁に倫理的な過ちがないのであれば、私にはあなたが私の額縁を早く忘れられるよう祈ることしかできない。

私はあなたを傷つけるためにこの記事を書くのではない。あなたと私が劇場で見た美しい光景について語り合えること、もしくはあなたにとって新しいまだ見たことのない美との出会いになることを願って書くのである。

 

前口上は済んだ。

では美しい地獄についての話をしよう。

 

最初に、コスタードという男のLLL作中における役割について確認したい。

先程のあらすじでは手紙を取り違える間抜けな取次役としてのコスタードにのみ触れた。実際、LLLをビローン&ロザラインを中心とした王侯貴族の子女たちによる恋愛喜劇として見たとき、コスタードの果たす役割は「手紙を取り違えることによってビローンの恋愛を露見させる」、それだけである。学のないバーテンや警官を下に見ているすましかえったセレブたちが、いざ恋をすれば愚かしくもがく。彼らの姿は、ビローンが自嘲した「賢いだけの負け犬」「ブランドT着たお子様」という表現がぴったりくる。誇りをかなぐり捨て、釣り合わない卑しい身分の娘に熱烈に求愛するアーマードのほうがまともに見えてすらくる。そういったドタバタ劇が始まるための、いわば装置としてコスタードがいる。その程度の理解で問題ないだろう。 

しかし視線の高さを王侯貴族の子女たちからコスタードたち貧困層に移すと違う景色が現れる。彼らは環境的な断絶の中にいる。1500年代の身分制度を持ち込むことで虚構に寄せられた「王侯貴族と庶民」という構図は、現代社会がいまなお持っている階層構造の戯画である。ラブコメとしての可愛らしいLLLから、富裕層と貧困層の対比という社会風刺的な皮肉な顔のLLLにスイッチするためのトリガー、地獄の案内人がコスタード(及びダル、ジャケネッタ)のもつもう一つの役割である。

 

そもそも私がコスタードを膝に受けてしまってな…などとうわごとを言い始めたのは、Rich peopleがとても好みのテーマを扱っていて致命傷を負ったところに終盤のナンバーで「入りたい健康保険」と屈託のない笑顔で歌っていた姿にとどめを刺されたがゆえである。なんだ?どういうことなんだ?あの笑顔。コスタードおまえそんなことを笑って言えるって、ああ、きみは、きみは!!

 

だめだ。つい興奮してしまった。クールダウンのために作品の話をしよう。

シェイクスピアの原典は1500年代の作であり、作中に出てくる「ナヴァール王国」も存在していた。しかし2019年シアタークリエで上演されているのはアメリカのパブリック・シアターにてかかった初演2013年のミュージカルである。ドミノ・ピザスパイダーマン、(日本版では出てこないが)セグウェイに乗って登場するキャラクターがいるなどの点からも分かる通り、作中は2013年に設定されており、また舞台もアメリカの高級リゾートに移っている*5。「ナヴァール王」「フランス王女」のような肩書はあくまで彼らの社会的立場を示す概念や舞台装置といったものであって、作中の肌感覚は現代アメリカのものと捉えて問題ないはずだ*6

前置きで断ったように、コスタードたち3人は公的支援は受けられない程度の稼ぎはあるものの確実に貧しい暮らしをしている層だと私は推定する。そのうえ、公務員のダルや金持ちに見初められ生活を脱出したジャケネッタと違い、コスタードには安定も展望もない。彼を見初めてくれるプリンセス(もしくはプリンス)は現れないまま幕は降りてしまった。その先はないのだ*7

 

すこし別の舞台の話をしてもいいだろうか。今年「ゴドーを待ちながら」(2019、KAAT)を観たのだが、これにはベテランの演じる「昭和・平成」と若手の演じる「令和」の2バージョンがあった。有名作品だが一応簡単に説明すると、「ゴドーを待ちながら」は、二人の浮浪者・ウラジミールとエストラゴンが道端で空虚な暇潰しをしながら、会ったことのないゴドーなる存在を延々待ち続ける話だ*8。「昭和・平成」でのウラジミールとエストラゴンは、手ぶらではあったが、腹が減ったときにはポケットや帽子から食料が出てきたし、着ている服はほつれてよれよれだったが仕立ての良いスーツだった。しかし「令和」での若いウラジミールとエストラゴンは、大きなデイパックを背負い、ストリートスタイルのファッションに身を包んだ、繁華街にゆけばいくらでもいそうな普通の若者の姿をしていた。「昭和・平成」のかつて人並みの暮らしをしていた人間がゆえあってすべてを失くし貧困のなかに転落した感じから一転、「令和」ではいまそのあたりにあたりまえにいるふつうの青少年が最初からどうしようもない貧困のなかにいる、という演出だった。全く同じ脚本を同じ公演内でここまで違う見せ方にできるのか!舞台ってなんてすごいんだ!といたく感動したのだがそれはまあ置いておく。

コスタードもまた、いかにもリゾート地の海辺にいそうな若者である。若い肉体の美しさを誇示するような服装は「貧困」という言葉から想像されるようなみじめなものではなく、どこからどう見ても垢抜けたサーフファッションだ。だからこそ、彼が貧困層の人間であること、教育や教育支援を受けていないであろうこと、それゆえ転職してよりよい収入や環境を得られる可能性が低いこと、そして(無理をしているふうではなくごく自然に)底抜けに明るく振る舞っていることに胸を締めつけられる。彼はビローンたちがそうであるのと同様に、どこにでもいる、まったくふつうの青年なのだ。ビローンとコスタードの違いは生まれた家がどこであったか、でしかないのではないか。

なお、コスタードが教育(および支援)を受けていないのではないかと考える根拠は手紙の扱いである。彼が手紙を取り違えたのは宛名が読めないからではないか。彼一人のことであればただの粗忽であるとも考えられるが、ジャケネッタもホロファニーズに「手紙を読んで聞かせて」と宛名が自分の名前でないことに気がつかず持ってきている。ビローンからラブレターが来たことに盛り上がって奪いあい、宛名を確かめず開封したフランス王女たちと違って、ホロファニーズに会いに行く途中で宛名を見るのに充分な時間があったはずであるにも関わらずだ。本文がスペイン語であれば読めなくても不思議はないし学者に読んでくれるよう頼んでもおかしくはないが、宛名が自分の名前かどうかくらいは文字が読めるのならばさすがにわかるだろう。高校までは行ったダル(「大学に行けずに働いてただけなのに」)と違ってふたりは識字ができない程度の教育しか受けていない可能性がある。コスタードはバーで伝票を書いているが、日頃使う単語程度は覚えていても不思議はないだろう。

 

LLLの貧困層について考えるとき、トリガーになるキャラクターがコスタードたちであるのだから、トリガーになる曲は間違いなくRich peopleだろう。

Rich peopleは作中の数少ない貧困層3名、すなわちコスタード、ダル、ジャケネッタが軽快な曲調で富裕層に毒づくナンバーである。コスタードが急所に刺さっていることや歌詞の良さを抜きにしても一番カッコいい曲だと思う。あまりに良かったのでiTunesで買った。あと幕が開いて日が経つにつれ三人のダンスがどんどん自棄っぱちっぽく崩れていってるのがすごくカッコよくて好き。あれ見ました?いいですよね。

 

「金があればいい大学に行ける 法律作って好きに破る Rich people」

「金があれば女が抱ける ジジイでも若い娘が抱ける」

「あいつらは俺のこと馬鹿だと思ってる 大学に行けずに働いてただけなのに」

「金持ちが世界を回す」

「Rich people 思ってる オレのことをゴミクズと」

「いつか報われるなんてことありえない それがこの世のさだめ」

「オレたちの居場所はない」

「真実の愛なんてありえない」

「金のない人生!地獄だ!」

こういった歌詞が並ぶ貧困層の歌だ。手紙を出すの出さないの、誇りがどうのこうのでひと騒ぎするセレブたちとは違うレイヤーの暮らしがそこにはある。

 

誇りや教養は人と獣との分かちである、とLLL作中では描かれる。たしかにそれは社会を形成するためには重要な考え方であり、ひとつの正しさであると思う。

誓いを破り誇りを自ら踏みにじったナヴァール王たちは命よりも大切なものをなくしてしまったことに落ち込む。誓いがなければ「今頃彼女とベッドの中」という彼らの春機をある程度抑え、本能のままに動物的な行動を取らせないのは規律に賭けた誇りゆえである。

大学教授たちは高等教育を受けていない警官のダルを「無知という名の怪物の顔はなんと醜いのでしょうか」「彼はページを食べたこともなければインクを飲んだこともない。彼には知性がなく、動物と同じで、愚鈍な部分しか感じることができないのです」と嘲る(ここのシーン、ダルが答える前に自分で「ない」と言葉を継いで決めつけているのが素晴らしく高慢で傲慢だ。ナサニエル役・ひのあらたさんの学究の徒らしい品の良いお顔立ちとシックなお声がまた見事なスノッブぶりとよく合っていて惚れ惚れする)が、実際ダルは彼らの会話を理解できていない。

ジャケネッタはラストを除き、誰の前に出ても頭を下げず突っ立っている。ホロファニーズに丁寧に呼びかけようという意思は「せんせい」という言葉から感じるが、手紙を読んで聞かせてと頼むときにも「おねがい」とはいうものの態度は伴っていない。ラストでアーマードと結ばれたジャケネッタが、恋人の振る舞いを真似てぎこちなくナヴァール王に頭を下げるのは、彼女がアーマードに手を引かれ人間社会のルールの内側に入った証である。

ジャケネッタといちゃついていて庭に侵入したことを咎められたコスタードは「王の命令を聞かなかったのか」との難詰に対し「聞いたよ、でも意味わかんなくて」と(ほかの言動からするにおそらく煽りではなく素で)答える。公的な布告であれば多少は堅い表現になるだろうから、口語かそれに近い表現でないとコスタードには分からなかったのではないか。

社会の規律を守るには、ルールを理解できるというのがまず前提としてある。「このはしわたるべからず」と書いてあったところで犬猫は橋の真ん中だろうが端だろうが構わず通るだろう。ウィット以前の問題だ。社会の規律の外にいるという意味では、人の言葉やルールが分からない彼らは、人ではなく獣に分けられるといえる。

 

しかし彼らを獣にしたのは一体だれだろうか?

それは社会の枠組みをつくり、人と獣を分けたものではなかったか?

 

王侯貴族や大学教授はきょうの食事にさえ事欠く生活をしたことはないだろう。嘲られながら肉体労働をこなしたことはないだろう。金がないという理由で進学を諦めたことはないだろう。同年代の子供たちが学校に通っているあいだに、幼い働き手が金を稼いでこなくては飢える家族などいなかっただろう。金が、学がないからという理由で、犬のように扱われることが当然の暮らしなどしたことはなかっただろう。誇りなど持ちようのない、持ったところで何にもならない人生など知らないだろう。

大人になってなんらかの責により転落したのであればまだしも、年若いダルやジャケネッタやコスタードはおそらくその家に生まれたがゆえにその環境を与えられた。生まれながらにして社会の中に入ることを拒まれた。それは彼らのせいだろうか?

 

昨年観た「誤解」(2018年、新国立小劇場)を思い出した。「異邦人」や「ペスト」で有名なアルベール・カミュの作品である。暗く陰鬱な雨に閉じ込められた国で小さな宿屋を営む母娘が、明るく希望にあふれた南の国への脱出を夢見て、獲物に適した宿泊客を殺して夜な夜な金品を奪っている。最後の犠牲者として定めた宿泊客との関わりの中で、母娘、宿泊客、そして客の妻の運命がもつれてこじれ、なにかひとつでも違えれば止まったはずのドミノは悲劇的な結末へと真っ直ぐに突き進んでゆく。そういう救いのない物語である*9

原作は宿泊客の男が真率でなかったがゆえに悲劇に飲み込まれてゆく筋立てだそうだが、舞台は殺人者である宿屋の娘の悲しみにフォーカスしたつくりだと感じた。物語の終盤、悲劇の連鎖の中で彼女は自分がもはや南の国へ行っても幸福にはなれないことを悟る。しかし彼女が欲していたのは、初めから南の国にある踏みしめれば火傷しそうに熱い砂浜や、雨を知らないあたたかな土地そのものではなかった。彼女は雨の国に生まれたことで生まれながらにして奪われた、それらの権利を欲したのだった。彼女はプラスになることを望んだのではなく、マイナスをゼロまで戻したかっただけだった。彼女は南の国に生まれていれば殺人者になどならずに済んだかもしれなかった。

 

コスタードは南の国を知っているだろうか。彼が生まれながらにして奪われたものを知っているだろうか。自分を勝手に獣として分け、社会から閉め出したものたちが、一方では自分を人として人間社会のルールをもって裁くことを、理不尽だと知っているだろうか。「それはそういうもの」だと思っているのではないだろうか。永遠に降りしきる陰鬱な雨の国で、太陽のような男は自分が奪われたものを知らずに生きていくのだろうか。

 

興奮してうっかりポエムを詠んでしまった。

一旦仕切り直そう。

 

ダルには怒りを、ジャケネッタには諦念を感じると先の演者評にて書いた。そのことにもう少し詳しく触れよう。

ダルのむっつりとした態度からはセレブたちへの反感と理不尽を甘受せねばならない暮らしへの怒りがにじんでいる。コスタードほど正面切って喧嘩を売ったりおちょくったりするわけではないが(もっともコスタードは能動的に喧嘩を売るというより「後先を考える能力に欠けている」かつ「極端に正直」のコンボが数々の暴言に繋がっているキャラのように思う。これについては後述する)真面目に職務を遂行する一方でセレブたちを適当にあしらい、アーマードの名前をわざと言い間違える*10。事あるごとに「金持ちはさっさと街から出て行け」というのがまたたまらない。コスタードやジャケネッタは店の客であるセレブたちがいなくては食うに困るのだが、公務員であるダルからすればただトラブルが増えるだけなので早くいなくなってほしいわけだ。同じ貧困層のなかでも彼らそれぞれに別の暮らしがあることがわかる。

ダル役が加藤潤一さんなのもまた実に良くて、開演前の客席降りで見せてくれるコスタードとの掛け合いは役よりもかなり朗らかなのが、(客席降りの際は役と役者の中間を行き来していることは百も承知だがそれでも)「ダルは本来こういう人間なのではないか、環境が彼からこの笑顔を奪っているのでは…」と思わされてしんどい(最高)。客席で自由に振る舞うコスタードを時に叱り、時に心配し、時にフォローするダルを見ていると、本編ではほぼ見られない親切で情に篤い警官としての種々の振る舞いに、彼が生来どんな気性の人物であるかを見せつけられるようで、本当に…しんどい…(最高…)。ダル役が加藤潤一さんであることにより深まる味わいにこの作品のキャスティングの素晴らしさを改めて感じる。ほんとみんな当て書きだろうかと思うくらい良いよね…。

ジャケネッタは舞台上に初めて出てくるシーンで、コスタードに「このエロい女のことだろォ?」と抱きすくめられ太ももを撫であげられても無反応で突っ立っている。コスタードに対してなんらかの感情があるならば、彼にしなだれかかる、もしくは逆に嫌そうに体をよじるのどちらかに類する反応を見せるだろう。なにもせず無の反応のまま立っているところに、彼女が今まで男たちにどのような目を向けられ、どんな扱いを受けてきたかが見える。自分の体の所有権を自分がもたないことについての、そしてその暮らしから去ることができない運命についての、諦念を感じる(これらの要素は彼女の見せ場であるソロナンバー・Love's a gunにもっとも顕著であるが、出てきてすぐに台詞もなく立ち方ひとつで彼女のバックグラウンドを鮮やかに魅せるジャケネッタ役・田村芽実さんの美しい表現力よ…と思うとどうしてもここの話がしたかった)。

 

ダル、ジャケネッタそれぞれが自分の暮らしに納得していない姿を追うごとに、コスタードの異様さが浮かび上がってくる。コスタードは気に食わない相手に中指を立てはするが、次の瞬間にはもう忘れたかのように明るい。いや、実際忘れているのではないか。

コスタードはセレブたちに対して口を慎まない(「バカが?アホに?使いを頼むってか!?」「それならあんただ、あんたが一番高貴なバカだ」など)。それはメタ的には作品内における上流階級への風刺であるが、コスタードという男の生き方として解釈するならば、後先を考える能力のなさのあらわれである。相手が気分を害しはするがそれだけで済むようなギリギリで刺しているダルやジャケネッタと違い、コスタードは自分の言葉によってなにが起きるかを想定していないように見える(想定していたらアーマードの腹を叩いてからかったりしないだろう)。また「断食」という言葉の意味はわかっているのに、アーマードの従者・モスに厳しい態度で追い立てられながら「なんだっけ、食べ物くれるんだっけ?」などととぼけたことを言いながら笑顔で去っていく。その数分前には「牢屋はいやだよ!腹が減って死にそうなんだ!」とアーマードにプライドもへったくれもなく許しを乞おうとしていたので、「牢屋くらいオレの庭だ、ぶち込まれたってどうってことねえな!法律が何だってんだバーカ!」的反骨精神ではなく、本当に純粋になにも考えていないし、言われたこともすぐ忘れているのだと思う。

なにも考えてなさそうなコスタードが出てくる別のシーンを引こう。手紙の誤配により恋が露見したビローンの、「コスタ〜〜ド?」と呼ぶ声はどう聞いても怒っているのだが、アーマードのようにわかりやすく怒鳴りつけてくるわけではないせいか、コスタードは危機をさっぱり感知せず陽気に寄っていく。ホロファニーズの元で手紙を誤配したことに明確に気がついているにも関わらずだ(フランス王女にも指摘されているのだが、その時点では言い回しが理解できていないかのように肩をすくめ首をひねっている。ホロファニーズの指摘時には手紙を届けたときを思い返すような動作とともに「あっ…!…まあいいか!」とでも言いたげなリアクションをしている)。「どこまで使えないヤツなんだ、俺に恥をかかせるために生まれてきたとしか思えない!」とどやしつけられても、なんのことだか思い当たる節がなさそうな顔でびっくりしている。そのあと友人たちに白い目で見られたビローンが芝居がかった仕草で膝をつき懺悔のポーズをとると、コスタードは「話の流れ全然わかんないけどオレなんか怒られてるっぽいな」程度の認識しかなさそうなそぶりでビローンの隣に並び、神妙に頭を垂れる。彼にとってだれかに裁かれることは、まるで春雷のように突然落ちてくる唐突で理不尽な出来事でしかないのだろう。原因があって結果がある、という、連続した事象の認識はもっていないのだろう。先に述べたように、コスタードは公的な布告が理解できるような教育を受けていないと思われるから、彼はいつも知らない社会のルールによって(彼の認識としてはまったく理不尽に)裁かれてきたのだろう。そういう暮らしのなかで育ってきたのなら、「原因」という概念を持ち得ないのも頷ける。

 またコスタードは何かを望むことも知らないように見える。といっても女と見ればすぐにナンパするし(手紙を取り違えるシーンでは1~2列あたりまでしか聞こえなさそうな声で「オレ、コスタード」「そこで飲まない?」のようなことをキャサリン相手に言っていて、相手にされずあしらわれている。ここのキャサリン役・伊波杏樹さんの「お話にならないわねぇ」みたいな蔑みの眼差し、とてもいい…)金や飲食に対しての欲望もちゃんと見せている。欲望がないわけではない。でもうまく言い表せないのだけれど、「何かを望む」ということが正常にできていない気がする。

そう感じたのは、ひとつは「ドミノ・ピザ?」「ピザハットよォ!」のくだりで、王女たちについていこうとしてキャサリンに追い払われているところ。もっともセレブに追い払われるのは織り込み済みで、なんだよ金あるんだからオレの分も払ってくれたっていいじゃん、程度の軽さだったから大して気にしていないだけ、と言われればそうだな…となる。しかし終盤、Tuba songでジャケネッタがアーマードにくちづけ、「いまはあなたが欲しいの」と求愛に応じるシーンでの反応はそれでは片付かない。作品の公式相関図を信用すれば、コスタードにとってアーマードはジャケネッタをめぐる恋敵にあたるはずである*11。しかしジャケネッタがアーマードの愛を受け入れ、カップルが成立したとき、コスタードは驚きののち満面の笑顔で拍手している。悔しそうでもなく、落ち込むでもなく、目の前で誕生した恋人たちを心から祝福するのだ。そもそもアーマードに「ジャケネッタへのラブレターを届けろ」と言われて素直に届けているきみはどういう感情なんだ?Tuba songでじゃれ合うように猫パンチしてるときのきみは目の前の男を一体どう思ってるんだ!?抱いても/抱かれてもいいと思った時点(「まぁオレ、そっちもイケますけど?」)で恋敵からナンパのターゲットにカテゴリが移ってるのか!?*12

どちらも本気ではなかったから、といわれれば、そうかもしれない。でも「本気ではなかった」ということ自体がそもそもなんだか、コスタードがこれまでの人生で何かを望んでこなかったことの証左のように見える。なにを望んでも手に入らない人生に慣れきって、それが世界の前提だと思っているようで、たまらない気持ちになる。素直にラブレターを届けたのも、純粋にこの手紙がジャケネッタにとって幸せを運ぶものだと思ったからかもしれないし(そしてそのとき、ジャケネッタを想ってひとりで泣いたり苦悩したり手紙を捨ててしまおうかと逡巡したりとかは一切せず、心からの笑顔で「おい、金持ちからのラブレターだぜ!人生勝ったな!」と祝福して囃しそうなところがまたしんどい。好きも嫌いも本質的にはコスタードに関係ないのだ、彼はなにも手に入らないことに慣れているから)。

Tuba songでコスタードの望むことが、たとえば「プールに入りたい」であったなら私はこんなに気が狂っていなかった。それはリゾート地を訪れるセレブたちと同等以上になりたいという望みとして解釈しうるものだからだ(ストレートに「プールめっちゃ楽しい」である可能性の方が高いが、解釈の余地はある)。でも彼が望んだのは「健康保険」だった。彼は、「金がない人生は地獄だ」といい「オレたちの居場所はない」と歌った彼は、それでも金持ちになりたいとすら望まず、ただ、明日に怯えないで済む程度のささやかな日常がほしいと言ったのだ。

コスタードは南の国を知っているだろうか、と先に書いた。おそらく南の国があることは知っている。でもそれを自分が望んでいいものだとはきっと知らない。夢見る権利があることを知らない。彼の住む雨の国はそういう世界だと思う。

彼に南の国を望んでもよいのだと言うのは傲慢だ。雨の国から出て行かせるだけの金か、それに相当する何かを与えるわけでないのなら、そんなものは自分が救われたいがゆえの言葉でしかなく、ただの加害にすぎない。そもそも彼が雨の国に住んでいると断じること自体が既に見下している。暮らしに不満をいだいているダルやジャケネッタと違い、コスタードは不幸ではない。だから幸福になってほしいとは言えない。では彼になにを祈ればいいのだろうか。なにを望んでもそれは彼への加害にしかならないようで、せめて適温の部屋でなにかおいしいものを食べていてほしい、としか言えなくなる。

 

Change of heartでプールの水を掬い、投げ上げてその飛沫を機嫌よさそうに浴びるコスタードを見るとき、どうにもたまらなくなる。照明を受けてきらきら光っているであろう水滴たちを機嫌よく見上げている姿は、雨の降りしきる寒い薄闇のなかから美しいものを見つけ出して笑って暮らしている彼の人生のようで、そこよりも南の国のほうが優れているというのは、価値観の偏りによるものではないかと思う。けれど健康保険に入りたいという言葉がやはり刺さって抜けないのだ。なにかを正しく欲しがれない、未来も過去もない彼が唯一発した、あしたを望むことばだったと思うから。

 

コスタードたち貧困層の立場を踏まえてLLLを眺めると、ラブコメディの中ではかわいらしかったり可笑しかったりする部分がまた別の意味を持って立ち上がってくる。そこにあるのは目の前にある差別構造に気がつくことのできない(あるいは気がつくつもりもない)、生まれながらの勝利者たちの愚かな姿である。

 

フランス王女は歌う。「お金なんて要らない ただの紙切れ」と。

ありきたりのフレーズではあるが、しかし手垢がつくほど繰り返された古典的な表現だからこそ、彼女の抱く感情がいつの世の恋人たちにも変わらない、素朴で力強い愛情なのだとしみじみ感じさせるナンバーだ。それまでの強気な態度から一転、恋にぎこちなくも真摯に向き合い、しっとりと歌う姿はいじらしい。

 

しかし同じ舞台にはその「ただの紙切れ」がないがゆえに踏みにじられる人間たちが立っている。「金がない人生は地獄だ」と天を仰ぐものたちがいる。貧困の再生産のなか、生まれによって初めから獣に分けられたものたちがいる。

王女の目に彼らは映らない。人間社会に所属しない獣など彼女の知ったことではない。それは悪意ゆえではない。それが彼女にとっての「世界」なのだ。それが「階層」という壁の作用なのだ。

 

ロザラインは歌う。「おしゃれな服 まずいビール 馬鹿騒ぎ もう要らない」と。

デュメーンは歌う。「いつまでスパイダーマン読んでるつもりだ?」と。

ビローンは歌う。「いつまで親のすねかじるつもりか?」と。

王侯貴族の子女たちは自分たちの愚かしくも愛しい恋愛騒動を通し、子供っぽい意地を張ることをやめ、青春時代に別れを告げ、大人として真実の愛のために手を取り合う。ラブコメディとしてのLLLはそうして幕を下ろす。

 

Rich peopleを歌う三人は、上流階級の青年たちと同じ板の上に立っていても全く違う物語を生きている。

ジャケネッタの青春には馬鹿騒ぎできるパーティもきれいなドレスもなかっただろう。

ダルは同級生が教科書を放り出してスパイダーマンを読んでいるあいだ働いていただろう。

コスタードにはフランネルのスーツを仕立ててくれる親などいなかっただろう。

彼らには別れを告げるべき青春時代など、大人になることを拒否してたゆたうことのできるモラトリアムなどなかった。彼らは年若い大人として世界に放り出され、日々を生き延びてきた。"Rich people"に嘲笑われ、あるいは不可視の存在として扱われながら。同じ母国語を使っていながら会話が不可能な、目には見えない深い断絶のなか。

 

 Rich peopleの歌詞もまた違った顔を見せ始める。世の中すべての"Rich people"に毒づいているようでいて、けっこう具体的にビローンたちの行動を皮肉っており、彼らがまさに"Rich people"であることを指摘している。

誇りをかけて立てたはずの誓いを、自分たちが恋に落ちたという勝手な都合で理屈をこねて破るボーイズは、「法律作って好きに破」っている。

さんざん水飛沫をはねちらしたステージに見向きもせず旧交をあたためるアーマードとビローンは、その後ろで「プール掃除するオレ」(コスタード)のことなど気にしない。

ことあるごとに金をちらつかせるビローン*13は、「金にもの言わせてなんでも思い通りに」しようとしている(うまくいってないのだがそれはそれ)。

 

アルベール・カミュの「転落」は、かつて元弁護士として人を裁いていたという男にその半生を聞かされるところから始まる。臆面もなく自分をすぐれた人間だと言い切り、長々と自分の善人ぶりを褒めたたえ、「私はだれからも愛されていた」と語る。人から称賛され、それに対して驕らずにこたえ、金銭的に困窮する人間の仕事を無償で受けてやるばかりかいくらかの生活の糧をもたせてやる。しかしそれは道徳的に人の上に立ち、だれよりも高いところに居ると実感するための、精神性を伴わない空虚な偽善である。「特に貧乏人と寡婦の仕事は積極的に受けました。誰も受けたがらない仕事を受けて弱い人間を助けると、皆が私を良い人間だと言いました」「気前の良い主人として贈り物をするのが好きなのであって、寄付を出せと求められるのは大嫌いでした」……あまりにもあけすけに語る男の言葉はいっそ清々しいほどに自己中心的だ。鼻持ちならない男のいけすかない自画自賛は、なにを言おうが結局のところおまえはむなしい偽善者ではないか、と読者の冷笑を誘う。

しかし物語が進むにつれ、彼の語りはトーンが変わってくる。あるエピソードを境にして、彼の語っていたことは事実の半分でしかないことが明かされてゆく。彼は常に称賛され愛されていたのではなく、称賛しないもの、愛さないものを自分の世界から切り捨て、忘却していただけなのだった。理想通りに行動できない自分、万能ではない自分、現実の自分をつきつけられるたびに、彼は自壊していく。天下無敵のスーパーマンというメッキが剥がれ、彼が転落してゆくたび、読者は彼を嘲笑する。やっぱりな。そういうことか。おまえは自分をスターだと思い込んでいるただの道化じゃあないか、と。

LLLの構造が「転落」と似ていると思ったのはそういう点だ。華やかな上流階級の青年たちが、恋をめぐってロマンチックで愚かで可愛らしい騒動を巻き起こすラブコメディとしての第一層が、「転落」の前半部分である。そこにあるのは青春に対するくすぐったくてもどかしい笑いだ。そしてRich peopleを起点にして第二層に進むと笑いの種類が変わる。自分の恋愛や机上の学問にうつつを抜かし(学問に関してはホロファニーズナサニエルの会話が過剰に衒学的な点、機知に富んでいるはずのふたりが……その、ええと、割と単純な駄洒落や下ネタを連発するあたりから中身の伴わない空虚な知性を表現するものとして解釈した)、いまそこにある差別へ無関心であるどころか加害者的な振る舞いを無自覚に行う富裕層の傲慢さが、コスタードたち貧困層との対比のなかにあらわれてくる。明日をもしれぬ暮らしをしているコスタードたちを前に、比喩表現として生きるの死ぬのと悶える恋人たちは滑稽である。そこにある笑いは彼らに対する、対する、……対する、ええと……言ってしまえば嘲笑に近いものである。

 

しかし、LLLをそういった悪意ある喜劇として捉えてなお、観終わったとき上流階級の青年たちに負の感情を持つかといえば決してそうではない。彼らはいま子供から大人になったばかりで、ようやく世界を知るためのスタートラインに立ったのだ。

Young menで悪友とともにはしゃぎ、恋の熱にうかされてSonetを歌い上げ、Are you a man?のきらきらした未来へ駆け出していくような旋律にわくわくし、心のすべてを差し出すためもてなしのパフォーマンスを見せる。

プライドのために滑稽にも見える意地を張る男たちにHey boysで「どうして男って!」と憤り、彼らをIt's not a good ideaで出し抜いてからかい、そしてほかのなにも要らないとただ互いを求める情熱に身を任せる。

そんな恋愛喜劇を繰り広げた彼らは愚かしくはあるが、それが間違っているわけではない。あるいは間違いだったとしても、これからいくらでも変わっていけるのだ。実際、フランス王女とロザラインは「いつも言葉で自分を守ってばかり パパと同じ… Oh No! 私と同じ」と、ボーイズに感じた欠点が実は自分の中にもあることに気がついている。

冬が去りやがて春が来れば蕾がほころび花がひらく。カッコウの呼ぶ声で目覚めた先には未来がある。若者には誤ちをふりかえり、正し、進んでゆけるだけの時間があるのだ。

 

 

 

 

さわやかに締まったのでLLL第二層の話はここまでです。

この先はさらに嫌な気分で劇場をあとにするハメになる可能性があるので重ね重ねおすすめしません。

 

 

 

ここまでの長い話を読み通してくださった方の根気と読解力を信用して、コスタードにどうしてそこまで沼ったのか、なにをことあるごとに「作者に人の心がない」だの「洗練された地獄」だの呻いているかについて話すが、本当にコスタードを吸いすぎて幻覚を見ているオタクの妄言なので、重ね重ね申し上げるが「LLLは地獄じゃない」派の真っ当な感性をお持ちのかたにはお勧めしない。私の性格の悪さのせいだから本当に気にしないでほしい。そういう解釈もあるんだな〜私は違いますが!!くらいで忘れてほしい。

あと「『転落』と同じだというわりにはクライマックスへの言及が足りてないよな?」と思った人、まさにその話をします(そこまでわかるならもうこの先読まなくても私がなんの話をするかわかると思うのですけど)。

 

 

 

 

 

 

地獄の話がお好きな同志よ。インターネットの辺境の更に奥への御足労誠に痛み入る。

正直なところ、こんなところまで読むのは知り合いのごく一部だろうと思う。タイトルを見てきたひとたちがいてもみんなもう最初の方で帰っただろう。

だから親愛なる我が友人よ、わたしはあなたに語りかけよう。わたしはあなたと、わたしの歪みきった、しかしわたしが美しいと信じる額縁から共にLLLを観たい。

世界中が顔を顰めても、あなたにだけは、わたしの見た途方もなく美しい瞬間を、どうか肩を並べてともに愛してほしい。

では、あなたとさらなる地獄の話をしよう。

 

地獄がお好きならもう思い当たるところはあるかもしれないが、一度思い出してみてほしい。この作品の舞台に一体誰が上がっているのかを。

ナヴァール王とその学友たち。

フランス王女とその学友たち、そして従者のボイエット。

アーマードと従者のモス。

学者のホロファニーズナサニエル

ダル、ジャケネッタ、コスタード。

兼役で衣装を変えて演じる細かな他役(ねこやバックダンサー等)を除けばこんなものだろう。

だが本当にそれだけだろうか?

 

あなたが開演時間を過ぎずシアタークリエに入ったことを前提にして話すことを許してほしい。

あなたのまえに、第四の壁を破ってリゾート地のバーテンダーが警察官を連れてドリンクを売りにやって来はしなかっただろうか?あなたに話しかけ、金銭と引き換えに商品を渡し、二言三言ことばを交わし、手を握らなかっただろうか?あるいは商品が売り切れてしまった詫びを告げ、雑談に来なかっただろうか?警察官にたしなめられたり、心配されたり、フォローされたり、軽妙なやりとりを交わしながら歩いていく姿を間近で見なかっただろうか?

あなたはコスタードとダルとジャケネッタに「観客」としてではなく「顧客」として扱われた瞬間がなかっただろうか?

客席の人間を「観客」ではなく「顧客」として扱う開演前の客降りによって、わたしやあなたは作品の内側に含まれることになる。そこに色濃く浮かびあがってくるものがある。それはなんだろうか?

 

客席に座っているのはコスタードたちから見れば間違いなく"Rich people"であるという指摘である。

 

どのような事情を抱えていようが、LLLの会場に入った時点で、客は「約12000円を純粋な娯楽に支払い」、「2時間の公演とそれに行くだけの体力と時間を都合する」ことができる人間である。勉強、仕事、家事、育児、介護、通院、さまざまな事情に都合をつけてやってくるのはそれぞれに苦労があるだろうが、しかしそれが絶対に不可能な人間は当たり前にいる。たとえ都合をつけたとしても、それが本人のコントロールの及ばない事象で駄目になることだってある(振替公演があったって、日時の都合を再度つけられる人間ばかりじゃあないのだから)。

客席にいるのはそういうあらゆるハードルを超えることのできた人間だけだ。それが叶った時点で、わたしたちが一定以上のラインを超えた暮らしを営む、コスタードたちから見れば"Rich people"に数えられる存在であることは、まぎれもない事実なのだ。

 

もちろん、これが上演サイドによる意図的な悪意ではないことは分かっている。シアタークリエでしか客席でのドリンク販売を行わないらしいという話からも、純粋に観客を盛り上げるための施策であることは理解している。*14

開演前から盛り上げ、舞台の上と客席との一体感を高め、客席からの手拍子や囃しが入りやすい空気を整える。「客席のノリがいいと演じる側もテンションが上がってより良いコンディションへ持っていける、素晴らしいものが作れる」としばしば演者側からも発信されるように、LLLのような作品では、作品に参加しやすい空気の醸成は非常に重要である。前説だけでなく開演前の客席降りがその役割を果たしていることは疑いようもない。

しかし、いやむしろ、意図的な悪意でないからこそそこには地獄ができあがるのだ。加害者と被害者がお互いにそれを知らない姿は、当然の行為として加害を行う"Rich people"と、踏みにじられることが日常になっている貧困層の麻痺した感覚を見事に描き出している。ことさらに演じるのではなく、物語の構造が自動的にそれを作り出す。なんと美しいのだろう。

第四の壁を破る演出はきょうびそこまで珍しいものではない。客に話しかけたり、舞台上にあげたりといったことであればまさにLLLでも行われていた。毎回違う反応を起こす、それは間違いなく「劇場に舞台を観に行くこと」の醍醐味のひとつだろう。舞台に上がるほど直接的ではなくとも、たとえば「雨に唄えば」のラストで本物の歌姫に喝采を送るとき、わたしたちは授賞式の出席者になる。「RENT」の抗議パフォーマンスを拍手と口笛で盛り上げるとき、わたしたちは空き地に集まったオーディエンスになる。

また、作中人物の運命にストーリー上直接触れられる作品としては「TERROR」(2018、紀伊國屋サザンシアター)を観賞したことがある。無差別テロによる大規模被害を防ぐため、巻き込まれた民間人もろとも犯人を殺害した空軍少佐の裁判に陪審員として参加し、幕間の投票で判決が変わるという仕掛けだ。

しかし前述の作品はどれも観客がその役割を理解して参加/不参加するものである。LLLの「客席に着いた時点で」、本人が望むと望まざるとにかかわらず、また自覚の有無にも関係なしに(それどころか無自覚であることさえも含めて)"Rich people"なのだとさりげなくしかし真っ向から指摘してくる、これほど美しい構造には初めて出会った。気がつかなければ気がつかないこと自体がまたその加害性の証明になっている。これを文学的と言わずになんと言うのか。

 

犯人はミュージカル版の作者だろう。パンフレットの寄稿コメントはどうも種々の要素に対し自覚的であるように窺える(意図的でないのだとしたらセンスが異常に良いのだろう)。

Rich peopleを歌うとき、コスタードが立てる中指は正面に向けられている。舞台なのだから、特別な事情がなければ正面に向けて振り付けを見せるのはごく当たり前のことだ。しかし上記視点を踏まえると、コスタードの中指は実際の意味においても客席の"Rich people"に向けられている。舞台という装置をつかった叙述トリックのごとき意地の悪さである。 

またBrabant song 3でアーマードとビローンが旧交をあたためているとき、後ろで「プール掃除をしてるオレ(=コスタード)」に注意を払わないのはアーマードたちだけではなく多くの観客も同様だろう。*15

LLLの地獄感はこういった元々潜ませてある要素と日本版での施策(客席販売)が悪魔的なマッチを見せた結果なのではないか。

 

いわゆる不条理文学やそれに類するものが好きである。「日常や平穏は脆い幻想である」ということを忘れたくないからだ。不条理文学ではないが、メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」を読んだとき、最初わたしはおおいに怪物に肩入れして読んだ。ヴィクターのことはいけ好かねえ野郎だと思った(だからミュージカル「フランケンシュタイン」でアンリと怪物が救われていたのを観ていたく感激した)。でももう一度読み直して、ふと「わたしは当然のように迫害される側に寄り添った視点でこの物語を読んだけれど、怪物がこの世界にいるのなら、わたしは咎なき怪物を迫害する側にいる可能性のほうがずっと高い」「そもそも現実にも怪物のように咎なくして迫害される存在はいるのだ」と気がつきぞっとした。自分が被害者と同じ立場になることを考えはしても、加害者になること、あるいは既に加害者の可能性があることを考え落として「平穏」しか認識できずにいるというのは、とても恐ろしいことだと思った。なにかを踏みつけているとき、それが悪意によるものであるよりも、自覚の無さによるものであるほうがずっと怖い。自分では正しようがないのだから。

LLLの構造は客席に対してまさにその無自覚を指摘していて、この作品が舞台であり、また客席にキャラクターが降りてくる必然性があるのがとても 美しいと思った。重ね重ね言うが客席に降りてくること自体は純粋な作品のための施策であり客席に対する悪意などではないと思う。でも偶然が噛み合って引かれた、LLLの構造を見えやすくする補助線の美しさは損なわれないとも思う。

 

カミュの「転落」は、クライマックスで男がなぜ長々と自分の半生を語ったか明かされる。

「私は人類の鏡」と語る彼のいけすかなさ、愚かしさ、偽善性、それらはすべて大なり小なり読み手のなかにもあるものだ。つまり彼を嘲笑ったとき、その嘲笑は自分に返ってくる。他者への裁きは自分への裁きとなる。

LLLで貧困層に目の向かない上流階級の狭い世界を笑ったとき、その笑い声は"Rich people"の自覚がない客席の自分に返ってくる。アーマードが「みなさんはそちらへ、私たちはこちらへ」とウィンクして退場し、芝居が終わっても、自分が"Rich people"であることは終わらない。こちら側の幕は降りない。アプローズは聞こえない。

LLLは間違いなく喜劇である。ファルスではなくコメディである。社会風刺による笑いを引き出し、そしてその笑い声で客席を殴り倒すエレガントな悪意である。

この美しい作品に触れることができてよかった。

 

 

作品の話はここで終わりです。本当にお疲れさまでした。

この先にあるのは濃い目の幻覚が見えているオタクによる「構造にふれた瞬間」の感動についての話とほかもろもろです。正気を喪失しているオタクをエンタメだと思っているひと以外には本当におすすめしません。

 

 

長々述べてきたので言うまでもないが見ての通りコスタード激推しオタクである。

推しキャラができたと思ったら観にきただけで貴様は加害者だと定義されるそんな舞台がありますか。席についているだけで心がずたずただ。しかも作品の構造上の仕掛けの話なのでべつに役者に加害しているわけではない。最高だ。*16

 

どこに書くべきか迷って結局落としたのでここで書くが、コスタードが「ヒステリックな女たちよ、アーメン」と十字を切ったり、ビローンの真似をして膝を付き懺悔をするようなポーズをとったりするのを見ると胸が苦しくなる。きみはきみを救わない神*17を、まさか信じているのか? 嘘だろう? それとも全部見様見真似なんだろうか。その意味するところを深く考えずにやっているんだろうか。なんにせよしんどい。

あとどんなシーンでも突っ立ってたジャケネッタが、最後にアーマードが「陛下、掛け歌を披露してもよろしいですか?」と聞きに来たときにはぎこちなくお辞儀をするのが本当に……しんどい……。ジャケネッタは有り得ないと言っていた真実の愛を手に入れて、人間社会のなかに入れて、だから今までと違って王様に対してお辞儀をするんだけれども(頭を下げるだけのときと足を引いてお辞儀をするときがあってどちらもとてもぎこちなくてすごく…すごく……、……)、そして彼女は幸せになったんだろうけれども、それはすごく喜ぶべきことなんだけども、だけども、コスタードはいつそちらに行けるんだろうと思うと、思うと…………。

あと「バーテン」が差別用語(「バーにいるフーテン」の略という説がある)なので本来はバーテンダーと呼ぶべきだというの、真偽は知らないけれどそういうつもりでディレクションしたんだとしたら前説の「オレ、そこでバーテンやってるコスタードっていいますヨロシク!」があまりにも破壊力高すぎないか。自分で「バーテン」を名乗るコスタード、「悪い言葉と知らずに大人が自分を様々な名前で呼ぶことを『そういうもの』なんだとしか思っていなくて大人になってからあのころ投げかけられていた言葉の意味を知っても傷つかないくらいそういう扱いが日常なコスタード」じゃないか…。

あとどうにもならなかったので意図的に無視したんだけれど、実はコスタード、映画くらいは観たことある(「アナコンダって……アッハハ、オレ大好きなんだよ、あの映画!」)。でもまあ映画くらいは…ほら…バーに置いてあるテレビとかでやってたかもしれないし…金曜ロードショー的な…と思うことにして強引に納得した。ところでここ、コスタードがボイエットの下ネタ(「私ならもっと下を狙いますよ、私のアナコンダで♡」)を理解していないように見えて嘘でしょ…?きみバーテンでしょ…?酔っぱらいの相手してたら「俺のアナコンダ」的なジョークばんばん飛ぶでしょ…!?と震えたんですが、あれきっとボイエットのセリフが映画の内容となにか掛かってたんだよな、そうだと言って。

 

あと本編ではないのだけれど、前説のコールアンドレスポンスの練習、東京序盤は「誰のこと見に来たの?みんな裏で聞いてるから名前呼んで!お目当ていなかったらオレ、コスタードっていうからオレのこと呼んでね!」だったのが中日以降あたりから「全部『コスタード』で返してね!」になってたの、自分から言わせに来てメチャカワ…と思った。

「オレの名前は?」\コスタード!/

「みんな大好き?」\コスタード!/

「あなたの恋人?」\コスタード!/

で会場全体に大好き!と言われてるコスタード、本編では「オレたちの居場所はない」って歌ってるけど(そしてわたしはそのせいで沼に落ちたのだけれど)、いまは世界にめちゃめちゃ愛されてるやんけ…!となって最高だった。あと「あなたの恋人?」の次は日によっていくつかパターンがあったのだけれど、「ホットドッグは?」にややガタガタながら「マスタード?」と返した会場に「マスタードつった?違います〜!オレは〜…ケチャップ〜!!」て煽ってたの、「それ両方好きなだけかけていいやつだよ!!!!!!」としんどくなった。お店のやつね、それね、好きなだけかけていいんだよ…知ってる…?マスタード嫌いなの…?ならいいんだけどさ…(イマジナリーコスタードに語りかけ始めるオタク)わかってるよ、小粋なジョークだよ、こんなのがブッ刺さって身悶えしてるオタクが悪いんだよ。

 

ついでなので、いまからあまり誠実ではない話を2点する。開演前の客席降りを踏まえると本編のセリフがしんどくなるという話なのだが、客席降り時は長いエチュードみたいなもので、ある程度ラインは相談しているかもしれないが、基本的に役者のアドリブである。ようするに、セリフから推察される役者の作品に対する解釈や、「客席降りを行っている」というギミック自体はともかく、作品本編にそのセリフそのものを持ち込むべきではないとわたしは思う*18。でも書いておかないと未来のわたしが忘れるのでしんどいポイントを書いておく。

ひとつはChange my heartで上の空のビローンにコスタードが半ば強引にシャンパンを入れさせるシーン。「シャンパンいただきました~!」と嬉しそうに言ってシャンパンを飲み、そのまま機嫌よくプールではしゃぎはじめるのがめちゃくちゃかわいい。わたしは酒が飲めないので一般的なバーの仕組みがわからないんだがああいうもんなんだろうか。ホストクラブかと思った。

それは置いておいて、開演前のドリンク販売で、完売時に「これ全部売ってもオレたちにバック無いんだぜ!」とコスタードが言う回がたまにあった(9回行って2~3回聞いたような気がする)。もちろん「オレたち」=役者であることは重々承知している。しているが、あまりにも遠山さんがコスタードなので、コスタードが「これだけ売っても定額の給料しかもらえない」と言っているように聞こえてしまってしんどい。本編に持ち込むべきではないと思いつつも、高額な酒を入れてもらったコスタードの笑顔は、売った酒の額に応じてバックがあるとかではなくて、単に「自分の稼ぎじゃ飲めない酒が飲めてうれしい」とかそういうことなんだろうか…とか考えてしまう。

 

もうひとつがAre you a man?前にビローンが「さあ、この見物人たちを下がらせて〜」とコスタードとジャケネッタを帰らせるシーン。「オレ、セーフ?」「セーフセーフ!さぁもう帰っていいんだよ、気をつけてね」以降、確か東京前半のうちは言っていなかったと思うのだけれど「風邪ひかないようにね」とビローンが声をかけるところでウッ……となる。

コスタードは無保険の貧困層である。「風邪をひく」というのは下手をすれば命に関わるし、そこまでいかなくてもこじらせて寝込めば店に立てず、チップなどの収入が大幅に減る。市販薬くらいは買えるだろうから実際にはそこまで酷いことにはならないかもしれないが、上流階級の思う「風邪」とは重みが違うだろう。東京公演の終盤(21日頃)、コスタードが客席で「この服装もう寒いんだよね」みたいなことを言って笑いを取っていたので、それ以降ここのセリフのことを考えると心がわやわやになる。誰かコスタードが風邪引かないようにあったかい上着を買ってあげて……。雨風をしのげる家はあるのか……ちゃんと冬用の毛布はあるのか……冬への備えはあるのかコスタード……どうなんだコスタード……おまえ冬もビーサンで過ごしてないだろうな……「今年はオレの履けるサイズの靴が落ちてなかったんだよ~寒いよ~」とか言ってビーサンじゃないだろうな……どうなんだ!どうなんだよ!安心させてくれよ!アグとかミネトンカとか言わないからせめてなんかモコモコのついてるパチモンのクロックスとか履いてくれよ!!あとちゃんとフルレングスのパンツも穿いてくれよ!!!コスタード(ふゆのすがた)、あるんだよな!?リージョンフォームあるんだよな!?あるって言ってくれよ!!!なあ!!!!!

 

また興奮してしまった。喋ってるとすぐ興奮するんだ。すぐ火のないところに煙を見て、というか火のないところを燃やして「あったかい!」って言い出すんだ。キャラクターをこじらせるって怖いですね。

 

気を取り直して次に行こう。 

それではわたしの最後の額縁を取り出して、あなたとともに眺めよう。

 

コスタードからのドリンク購入について、最初は「俳優さんのファンの方に行き渡った方がいいよな…」と思い挙手は控えていたのだけれど、前述の構造に思い当たってからは積極的に手を挙げた。自分がコスタードに加害する世界の一部であるならば、そこに自分の手で参加したい、自分の手で明確に加害を行いたい、コスタード激推しオタクとして購入できるかどうかはともかくせめてチャレンジはしたいと思ったからだ(ここまで読んだ方にまさか誤読されるとは思わないが、念のために述べておくと、ここで言う加害というのはもちろん「作品構造により指摘された"Rich people"としての立場を認識した上でバーテンのコスタードに金銭を支払い、顧客として交流すること」を指している。断じて役者への身体的・精神的な加害を目的とするものではない、いかなる主義主張があろうともそんなものが許されていいはずがない)。

果たして加害チャレンジは成功した。わたしはコスタードに300円を支払いながら、「コスタードに会うために(観劇回数を)2回増やしました」と伝えた。マジで?ありがとう!というようなことを言っていただいたように思うが限界だったので記憶が定かではない。間近で見た明るい笑顔は眩しかった。握手をする手が震えた。涙が出ないように必死だった。あまりにも美しい瞬間だった。

作中で食うに困るようなセリフ(「腹が減って死にそうなんだ!」)すらある、なにも持たない、なにかを望むことさえもはや期待さえしていない(ジャケネッタがアーマードにくちづけたときの心から祝福する曇りなき笑顔!)、"Rich people"に踏みにじられて生きている、「ドリンクを完売させてもオレたちにはなんのバックもない」と笑う貧困層のバーテンに、「2万を娯楽に支払った」と言ったのはまぎれもない加害行為だった。販売のシステム上、客席の人間はコスタードにチップだと言って余計な金を払うことはできない(わかるだろうか?そのことによってわたしは「娯楽に払う金はあっても売り子にチップもやらない」人間になるのだ、自動的に!)。ああ、23000円あったらコスタードは何日食っていけるのだろう。なにに使うのだろう。冬を越すためのあたたかい衣服だとか、寒さをしのぐ毛布だとか、そういうものだろうか。命を守れるかどうかの決め手になるかもしれない金額を、数時間の娯楽に支払う人間に、屈託なく「楽しんで!」と笑うかれの明るさよ……。心がめちゃくちゃになる……。

客席に降りているあいだも「コスタードとして生きること」を徹底してくださっていた遠山さんのおかげで、わたしはあのときたしかにリゾート地でバーテンからドリンクを買うことができた。

本来ならば干渉することのかなわない架空の人物に対して、わたしはあのときたしかに第四の壁を突き破り加害した。わたしはまぎれもなく加害者だった。

物語の構造の美を愛する者にとって、それがどれだけの奇跡で、どれだけ美しい瞬間であったことか、わたしのつたない文章は伝えられているだろうか。かつてバスチアン*19に憧れたあなたになら、わたしはあのときたしかに幼心の君を心の名で呼んだのだと言えば、少しでもこの感動が伝わるだろうか。

 

ちなみに「コスタードに会うために」はリップサービスではなく事実である(というか事実でなければ伝える意味がないのでこれを言うために増やしたのだ)。まあまあの冬物が買えるくらいの金額を先行で突っ込んであったので、村井さんを観る目的であれば「無理のない持続可能なオタク人生のためには我慢も必要だ…」と堪えることができたと思う。有給取って増やした2枚はコスタードが心底ヤバかったがゆえ、そして構造のオタクとしてこんな機会みすみす逃せるものかよと思ったがゆえである。わたしは多くのオタクがそうであるように、金銭感覚がイカレているだけで別に金満家ではない。23000円は普通に大金である。それでもどうしてもやりたかった。

 

 

ここまできたらどうでもいい話を聞いてほしいんだけども、感想自体よりコスタードが貧困層であるという前提に根拠を与えるべく現実世界の制度を調べてた時間のほうが疲れた。アメリカの保険制度とか給与基準とかめちゃくちゃ検索した。やっと出てきたページが最新のデータで「ちげえ!2012~2013年!」って癇癪起こしたりした。貧困ラインが数字で出てるページが日本語で見つからなくて仕方なく英語で検索してもおぼつかない検索ワードなので全然ダメで(poverty line 2012 で検索して出てきたページがアメリカのじゃなかったり Americaとかsingleとか追加してもダメでやっと出てきたと思ったらrateしか載ってなくて具体的な金額がなかったりしてあああもう!!!となった)、最終的にアメリ国勢調査局のホームページをさまよったよ。あんまりこんなこと言いたかねえが非常に頭が悪いので調べても調べてもわからん英単語が無限に出てくることにキレて「いいだろ!コスタードは貧困層!!そう思うからそうなんだよ!!おわり!!」って書こうかと何度か思った。思っただけにした。頭が悪い人間に久々に英和辞書を持ってこさせたのでコスタードはすごい。ついでにいうとこの記事は5万字ある。べつに人が見にくるわけでもないし金にもならない辺境のブログに5万字書かせたコスタードは本当にすごい。 

ちなみにこの記事にどうでもいいようなことを含めて注釈がいっぱいついているのはTuba songの歌詞に引っ掛けてのことだ。

 

 

本記事の参考資料というか眺めていたのは以下3件。もうちょっといろいろ検索したんだけども数字の出どころがわからない「みなさんはどう思いましたか?」的なアレが多かったので割愛。

 

アメリカの公的貧困ラインの数字の出どころ。英語無理だからがんばって日本語でどうにか探し当てようと思ったんだけれど、見つからなくて結局本家に行ったら5分で見つかったのでちくしょうと思った。

www.census.gov

 

前提のところで書いた「所得層の半分が年収3万ドル以下」の出どころはこれ。U.S.Cenesus Bureauのページで数字探そうとしたけど10回くらい違うページ開いてもう心が折れた。人種ごとの統計とかあるんですね。勉強にはなった。

www.huffingtonpost.jp

 

2012年ごろのアメリカの貧困層とか医療費負担に関する雰囲気はこれを読んでなんとなく参考に。

ci.nii.ac.jp

 

 

あとここまで読んだらなにかの縁だと思っておすすめの募金団体を教えてください。恵まれない推しに愛の手をとかではなくマジのやつ。

詐欺団体に払いたくないと思いすぎるあまり手堅くあしなが育英会と桃柿育英会赤十字くらいにしか募金してないのだけれどこの社会のどこかにいるコスタードたちにはそれじゃ届かないので……。東京アンブレラ基金(シェルターが必要な人向けの宿泊費緊急支援)の評判調べて検討しようと思ってたのをこの記事書いてて思い出した。

 

 

最後になりましたが、無から取り出したコスタードの話でお別れしましょう。

コスタード絶対に母親の顔知らないし、父親がアルコールで死んでるじゃないですか。「親父起きてこねえなと思ったら寝ゲロ喉につまらせて死んでたんだよ、カッコつかねえよな」って笑いながら言うじゃないですか。「オレもいつか酒で死ぬのかなァ、どうせなら高ェ酒で死にてえな」とか悲壮感とか一切なくいつか死ぬさだめなんだと明日の献立みたいに言うじゃないですか。

あと子供の頃絶対ひもじくてゴミ箱漁ってるじゃないですか。「近所にマクドナルドできたときは嬉しかったなァ、それまでレストランしかなくてさ、ゴミ箱の中の残飯全部混ざってぐっちゃぐちゃだったんだけど、マックは紙に包んであるだろ?運がいいとちゃんとしたのが捨てられててさ」とか言うじゃないですか。不幸話とかじゃなくて子供時代の思い出話として遠足でディズニーランドに行ったとかクリスマスに欲しかったスニーカーを買ってもらったとかそういうのと同類のエピソードとして出してくるじゃないですか。

コスタードをキメすぎたのでこういう幻覚が毎日見えています。助けてくれ。

 

 

※追加※

名古屋公演(大千穐楽)で救われた上に遠山さんのアドリブがめちゃくちゃすごすぎて感情がおかしくなった話を書きました。

「ラブコメディとしてのLLL第一層を一発のアドリブで新たに定義し直していろんな場面をひっくり返していってコスタードがヤバイ」という話を16000字くらい書いています。よろしければ完結篇としてご覧ください。

雨の降る世界に光をあてたのはコスタード、きみだ!(舞台「ラヴズ・レイバーズ・ロスト」名古屋公演感想) - クレヨン、それからカレンダー

 

*1:ねえ、どうして魔界転生WOWOWで放送したのに真田再演はやってくれないんですか!?というか魔界転生って村井甚八が出てる再演履修しないと淀殿との会話とか充分にエモがれなくないか!?「真田十勇士根津甚八」の顔がわからない淀殿、本当にしんどくて劇場で泣いてしまった……

*2:1984華氏451!誤解!フランケンシュタインゴドーを待ちながら!ビビを見た!ああ、どれでもいいからやってくれんだろうか!!ついでにいうと「脳男」が舞台化されるなら絶対にスズキイチロウやってほしいと思っていたのでデスミュ夜神月役の告知が出たとき「オタクの与太じゃん!!」と叫んだ、演出とかすごく美しい舞台ですよねとても楽しみ…

*3:正確に述べると何度か「いま遠山さんって呼んだ!?」と言いながら客席を走っていくのを目撃はしたのですが、基本スタンスは「遠山さんじゃなくてコスタード!」を貫いてくださっていたので

*4:65歳以下の単身者の場合

*5:公式のあらすじには「ピレネー山脈沿い」とあるが、翻訳・訳詞・演出の上田一豪さんはパンフレットにて「アメリカの高級リゾート地」と述べており、演出家の言葉なのでこの記述に従っていいだろうと思っている。また念のため元ナヴァール王国領地が含まれる現フランスの保険制度を調べたところ、初演時点で国民皆保険だったため、コスタードの「入りたい健康保険!」が不成立となる。やはり実質的な舞台はアメリカだと捉えていいと思う

*6:といっても私は日本に生まれて日本に育ったので現代アメリカの肌感覚は持ち合わせていないのでなんとなく調べてなんとなく参考にした。最後の方に参考資料を記しておく

*7:ホロファニーズに気に入られていたのでは?という点を検討すべきかと思うのだけれど、リゾート地で一晩遊ぶだけならともかく、衒学的な言葉遣いでエクスタシーに至る学者が果たしてパートナーに無学な男を選ぶだろうか…というのが判断しきれないので、本記事ではそのルートについては考慮しない。誰か検討してほしい。

*8:そんなのが面白いのかって?めちゃくちゃサイコーだったよ

*9:この手の話が好きならガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」もきっと気に入ると思う

*10:これに関しては「聞き慣れない外国人の名前が覚えられない、または音でしか聞いていないのではっきりと認識できずなんとなく聞き覚えのある単語を並べている」という可能性もあるが

*11:コスタードが積極的にジャケネッタを口説いているシーンが実は本編にはほとんど無いので、ある意味本編に出てこない設定を拠り所にするのは心苦しいのだけれど。ただしダルに捕縛された時点で未遂なのか事後なのかはさておき口説いていたこと自体は確かだし、開演前の客席降りではジャケネッタにファンからの歓声が飛ぶと「おい、オレのジャケネッタだぞ!」と言ったりしていたので、少なくとも演者側の認識は相関図通りだと思う

*12:ちなみにここの「お前を逃してやる」「えっ!?オレを脱がす!?」というやりとり、2008年松岡和子訳のちくま文庫で原典読んでたら「お前を解放(enfranchise)してやる」「えっ!?オレをフランシス(Frances、当時の娼婦の典型的な名)と結婚させる!?」という感じのやりとりであることが分かって、あんな短いセリフなのに元ネタしっかり引っ掛けた翻訳なんだ…!とものすごく感動した

*13:ロザラインをお茶に誘うシーン、ボイエットにロザラインの恋人の有無を訊くシーン、これは飲食の支払い込みなのでアレだが潤沢なチップをコスタードに払うシーン、間違えてフランス王女を口説くシーンの4回。他のキャラクターはチップを含めて0回なので意図的にやっているはず

*14:本記事は東京公演の話のみで書いているのですが、書いてるうちに始まった兵庫公演ではパンフを販売していたそうですね。パンフだと作品の外のものという感じなので加害感がやや薄れるものの、バブル期のように札を振ってコスタードを呼んでいたとのレポを見ていやちょっと兵庫の皆さんそんなの最高すぎない!?!?と思いました。名古屋公演行ったときわたしもやりたい…。

*15:遠山さんファン及びコスタードファンはガン見してるとは思いますが。わたしは村井さんのオタクかつコスタード激推しオタクなのでどっちに集中すればいいんだ…と毎回目が足りなくなっています

*16:こんなもん観にきたら数字が出てしまってこんなクソ仕事また受けさせられるかもしれない、わかってて劇場に来る自分は推しに対して、そして芸術に対する加害者ではないのか、と思うような舞台ありますよね。地獄地獄とはしゃいでおきながら何だけれど、その手の地獄は遠慮したい。わたしは役者に苦しんでほしいわけではないので。まあそういう作品も本人が楽しそうならまだいいんですけど。

*17:だってキリスト教の世界観において神様が救うのは、……いや、止そう、ここまで読んだひとには言うまでもないことだ

*18:ついでに言うと、客席に人気であることを本編と混同するのもやるべきではなかろうと思うので、本記事ではコスタードがこの世のどこにも身の置きどころのない男のような扱いをしているが、遠山コスタードはもちろん客席には老若男女問わず大歓迎されていたことを断っておく

*19:ミヒャエル・エンデはてしない物語」。なぜ物語という形式が必要なのかということについて簡明に教えてくれた素晴らしい本で、わたしの人生の基礎をつくった一冊なので、なにかとファンタージェンの話をしてしまう。でもあなたがもしあのあかがね色の表紙を開いてファンタージェンに行ったことがあるのなら、きっと気持ちはわかってもらえるだろう。