クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

世界にかけられる額縁と遠近(クリスチャン・ボルタンスキー展「Life time」感想)

盆のあいだも働いていた。たいへん仕事がはかどり、平時の仕事がどれだけ非効率かを思い知る。

順番に並んでくれればたいていの仕事はきちっきちっと終わっていくのだが、もちろん順番に並んでくれるわけはない。あちこちに好き勝手ばらけるペンギンをひとりずつ連れ帰って魚を食わせるような仕事の仕方をしている。道路に出ようとするやつや逃げるやつを優先で追いかけるので、無害なところにいるやつの飯は遅くなり、かわいそうなんだがいかんともしがたい……すまんな……と思っている。

べつに動物関係の仕事ではないというか、生き物相手ではない仕事をしているが、ワ〜〜とやってくるメールやタスクを見ていると、そういう気持ちになる。

 

9月に休む予定がある。しかしそれでも夏休みが余るので、てきとうに休みを入れた。夏休みを堪能すべく朝から出かけて、六本木の新美術館のクリスチャン・ボルタンスキー展をみにいった。

美術には詳しくなく、現代美術はまったくわからないので、予習をしていこうと思い検索したがあんまり手応えはなかった。わからないものを探すときはふわふわしたキーワードで検索するので結果もかぎりなくふわふわしている。

インターネットにはなんでも載ってるんじゃあないのか。いやまあなんでも載ってるんだろうが、私は辿り着くことができず、結局はウィキペディアを読んだ。ユダヤ系のルーツをもち、ホロコーストから徐々に死そのものや存在と不在というテーマに移っていったことくらいしかわからなかったが、乃木坂駅についたので入って展示を見た。

 

どれもすごくよかった。「保存室(カナダ)」、「ぼた山」、「発言する」、「黄金の海」、「ミステリオス」がとくに良くてずっとそのあたりをうろうろと見ていた。「死んだスイス人の記録」のあたりも好きだった。

作品にはキャプションがなく、したがって作品を見てもタイトルはわからない。入室時に渡される、タブロイド紙のようなガイドに、展示室内の地図と番号、その番号に対応する作品のキャプションが載っている。展示全体をひとつの作品のように感じて欲しいという意図とのこと。せっかくなのでまずは説明を読まずにすべて観てまわり、そのあとで説明を読みながら巡りなおした。平日で人が少なかったのでできたことだ。

美術品のそばにキャプションがあるとつい読んでしまうので、作品をあまりよく見ずわかった気になってしまうこともある。この形式だとそれがなく、先入観もなく作品にいきなり出会うことができて面白かった。序盤と中盤のあいだあたりに「心臓音」(録音されたボルタンスキーの心臓音にあわせて電球が明滅する)があったので、会場全体が胎内を巡っているようだと思った。でもそういうことを除いても、外で新聞を読む人が少ない現代(電子版もあることだし)、そこかしこで新聞紙のようなものを熱心に読む人々が見られる光景自体がひとつのインスタレーションのようでおもしろかった。会場が薄暗いので、みな顔を紙面に寄せていて、熱心そうさに拍車がかかっていた。

 

「保存室(カナダ)」はたくさんの古着が吊るされた作品だった。さまざまな服があり、そのさまざまな服はかつて着られていたが、その服たちはもう着られることはなく、いわば服の死体である。 服たちは新品ではなく古着であるから、それらを着ていたひとたちと着られていた服たちには人生があった。そしてそれらはもうどこにもない。 そういう不在が服の数だけそこにあった。 よく考えればあくまで古着というだけで、べつに死んだひとのものだという明示的な説明はなかったと思うのだけれど、そんなことを考えながら見た。

「ぼた山」もそれに似た作品で、黒い服がうず高く山のように積み上げられている。ただしカラフルで一枚一枚がくっきりと分かれていた「保存室」に対し、「ぼた山」は黒一色なので(ボタンなども真っ黒で沈んでいる)、近づいてよく見ないとただのひとかたまりの山に見える。同じ服の死体であっても、「ぼた山」は個ではなく死の集合体に見えた。直近まで読んでいた本の影響で、特定の事象によって発生した死体の山のように感じた。弔うこともできないまま堆く積み上げられた、個を失った悲劇の総体のように思った。見る人やタイミングによっては別のもの、あるいは別の事象を想起するのだろう。抽象は抽象であり、明確な輪郭をもたないから、特定の具象をうつすことができる容れ物たりえるのだなと思った。

古着屋や骨董市でそういうもの(かつてひとの手にあり、いまはもうその時間は過去になっている)を見るときは、歴史やもののたどる運命についてのロマンを強く思う。 しかしボルタンスキー展という意図のある空間で見る古着には強く死を感じる。 物質としては同じようなものが、その空間の意図によってまったく違う意味をもつのがおもしろかった。

そういうことを考えているうちに思い出したのが舞台「ピカソアインシュタイン」(2019、よみうり大手町ホール)のセリフだった。「その絵は何が素晴らしいんですか?」と訊かれた画商サゴは、「それは…額縁だ!境界!境目!これがあるから絵になるのだ」と答える。また別の場面では、アインシュタインに「科学者は『点と点のあいだは直線で結ぶのが最短距離』とかいうのが仕事だろう?」と馬鹿にした態度をとっていたピカソは、口論のすえ「つまり、(アインシュタインの研究、そして科学とは)新しい世界の見方を、いまはまだどこにもない美を生み出すもの?」と問い、アインシュタインがそうだと答えるやいなや「兄弟!」と感激しながらハグを交わし和解する。どちらも、世界に額縁をかけて意味を与え、人に新しい見方で対象を見せることはジャンルを超えて尊い、という場面だと思った。作品のとても好きな場面だ。

美術のことはよく知らないのでわからないことが多い。特に現代美術はこれが…芸術…というやつなのか…?と戸惑いあるいは不思議に感じることもよくある。でも世界に額縁をかけるという意味ではなるほど芸術なんだな!!と今回の展示で強く納得した。

 

「モニュメント」や「死んだスイス人の記録」のような写真を祭壇状に飾りつけるものが広いスペースに飾られている部屋では、なんだか(それらの作品は死者の写真だと明示されているからかもしれないが)以前東京の警察博物館に行ったときのことを思い出した。何階だったか、殉職者の写真と死の経緯について記されたパネルが並んでいる部屋があった。予定の時間まで暇を潰そうと近くの無料の施設だというだけで立ち寄ったのだけれど、そこの部屋は時間をかけて展示を見た。一枚一枚を読んでいくと、さまざまな死があった。さぞ無念であろうという人も、きっと警察官としての本懐を遂げたのだろうという人もいた(本人ではないので本当のところはわからない)。しかしどのような経緯であっても警察官としての職務中に亡くなったことは同じで、そしてみなもういない。

そういえば「モニュメント」シリーズに使用されているのは、1930年代のオーストリアの高校やユダヤ系の子供達のものだという解説があった。かれらひとりひとりが実際にどうなったのかは知る由もないが、「1930年代のユダヤ系の幼児〜高校生」というかたまりで捉えたとき、かれらがその後どうなったのかについては、ひとつの想像に辿り着いていく。

「死んだスイス人の記録」は死亡記事から切り取られたスイス人の写真をクッキー缶に貼り付けたものを大量に積み上げた作品で、それらはなぜスイス人なのかというと、「歴史的に死すべき背景を持っていない民族」だからということらしい。その認識が歴史的に正しいかどうかはさておき(世界史にうといので)、意図は納得した。「モニュメント」シリーズとは反対の、意味を負わない個々の死だけを背負ったひとりひとりの集合体ということだろう。クッキー缶は骨壷のようだった。六本木の国立新美術館では壁沿いにキャビネットのように整然と積まれていたけれど、図録を見ると展示する美術館によっては部屋全体に石筍のように積み上げられ、その奥に別の作品(「アニミタス」など)が飾られていることもあるようだ。人々の死の記録の隙間から見るアニミタスはどう見えるのだろう。

 

「発言する」は木の脚とライトの頭をもち、黒い服を着、それぞれが胸についたスピーカーから死について問いかけてくる人形のような作品。 展示室に入ってすぐは気がつかず、それらが人間ではないことに気がつくとぎょっとした。かれらは小さな声で語りかけてくるので、問いかけを聞こうとする人たちは自然と彼らの近くに寄り添い、あるいは話しかけるように前に立つ。 胸のあたりにスピーカーがあるので、心臓音をきこうとするような仕草にも感じる。

死について問いかけてくるものたちは、「ねえ、一瞬だった? 」「お母さんを残していったの? 」「きみは飛んでいった? 」などと、抽象的な概念というよりは死という現象そのものについて問う。死は概念ではなく実際にある現象であり、生きものは必ず、そして一度だけ体験するものである。 そういうことを考えた。

 

「ミステリオス」は、鯨に語りかけるための鳴き声に似た音が出る巨大なホーンを海辺に設置して、鯨に時間の根源について問いかける作品(の映像)。三枚のスクリーンそれぞれに、浜辺に横たわる白骨化した鯨(左)鯨に語りかけるための装置(中央)その先にある海(右)という配置で映像が流れている。

解説を読む前は、鯨の不在についてのものだと思った。鯨のからだがあり、鳴き声があり、住処があるが、鯨は失われていて、それを蘇らせることはできない。決定的なものが(命が、あるいは魂が)失われてしまえばもう蘇らない。亡霊のように声だけが海に語りかけ続けるが、しかし語り手はもういない。語りに対して応答するもの(生きた鯨)もいない。だれもいない海がそこにあり、主体も客体も存在しないまま語りだけがある。そういうとてもさびしいもののように感じた。

しかし本来の意図は「鯨に話しかけた男がいた」という神話のようなものが残ることのようだった。すべてが失われても語りの中に何かが生き続けることを目指す、それは普遍的な芸術の姿だった。さらには「人間が滅びてもこの鯨の声を持つものは変わらずそこにある、そう思うと安らかな気持ちになる」という解説もあった。

物語は受け手のなかにあるという教育を受けた世代なのでそう思っている。しかしその受け手の思考に指向性を与え、物語を引き出すのが芸術の価値であるとも思っている。

ピカソアインシュタイン」の場面をまた引こう。バーでピカソを待っている恋人が、ピカソから貰った絵を同席したアインシュタインに見せ、アインシュタインはその絵を「二〇世紀がこんなふうに簡単に手渡されるなんて思ってもみなかった……紙と鉛筆はこの絵を描くために作られたのだ」と絶賛する。自分の気にいっている絵を手酷く批評されて面白くないバーの主人が「で、君が考えるその絵の価値は?」と訊ねると、アインシュタインは「この絵がいまここにある、それがこの絵の価値です」と答える。興味を惹かれ、バーの主人と妻、常連客、ピカソの恋人はアインシュタインが手に持ったその絵を覗き込み、「私は好きよ」「俺にはわからん」「ふぅん?」「この絵のモデル、私じゃないわよね?」と口々に感想を述べる。「こうして(見た人それぞれの)意見が五つ出ました。これが全人類なら何十億の意見が出る(ことがこの絵のもつ価値だ)」とアインシュタインピカソを評価する。劇場では好きな手触りの場面だと思いながらもしっかりとは噛めていなかった。それがこのときにそうかと腑に落ちた。人々から言葉を、思考を、物語を引き出すためのトリガー自体と、トリガーを作り出すものの価値は失われない。そして作品自体の意図とは違っても、私が考えたことの価値もまた失われない。そういうことだろうと思った。

 

神話をつくるというのがこの作家の近年のテーマ(?)だそうで、直島にある「心臓音のアーカイブ」もそのひとつらしい。そこを訪れたひとが心臓音を録音し、アーカイブされたそれらはいつでも聴くことができる。心臓音は増え続けている。その島について作家は「数千数万の鼓動をもつその島に私が行く必要はない。そこにそれがあること、そしてそれを知っていることが重要だ」といったそうだ。

なんとなくわかるような気がする。いつか、できれば大切にしている友人と行きたいと思った。いつか我々が憎み合って相去るとしても、アーカイブされた友人の心臓音がそこにあって、いつでも聴くことができる島がある、というのは美しいことだと思った。あるいはどちらかの天命が尽きたとして、たとえ実際に聴きにゆくことはなくても、そこにまだ心臓音が鳴っていると知っているというのは、救いであろうと思った。「そこにある」ことを「知っている」というのは、とても大事なことだろう。

 

大学の同期が死んで五年になる。都会の街なかであきれるくらいたくさんの人がいるなかを歩いていると、その何千人何万人のなかに偶然彼女がいる可能性が、もうまったくないのだということに気づいて、いつも新鮮におどろく。彼女の好きな作家が新刊を出しても、彼女はもう絶対に読めない。彼女の好きだったメゾンの新作が出ても、彼女はもう絶対に着られない。あんなにたくさん人がいても、でももう絶対にどこにもいない。誰ひとりとして絶対に彼女ではない。世の中に絶対ということはめったにないので、死んだ人間とは絶対に会えない、ということを思い出したときの、その「絶対」のあまりの強固さに、いつでもおどろく。

 

「モニュメント」や「ぼた山」、「保存室」を見たときには、私は抽象化されて普遍化された死について考えた。「発言する」を見たときには個人的な体験、事象としての死について考えた。人を個でみることとかたまりでみること、死を具象と抽象とでとらえること、そんな相反する思考が振り子のように行き来した。とても良い体験だった。

 

という感想を8月からぼちぼちと書いていて、もう10月になってしまった。

死についてこれだけ思いを馳せさせられる展示を見ておきながら生きていることに対してすこし甘え過ぎではないかと思った。

感想が渋滞している、どうも話が長い、祖母と沖縄、観に行きたい映画

またぼやぼやしているうちに10月になった。下書きに長文の感想がたまっていく一方で、日記らしい日記が続いていない。

ツイッターの鍵アカウントでつけている日記はそろそろ一年になる。寝込んだりしてつけていない日もあるがおおむね毎日である。

毎日のことをつけるのにどうもブログはむいていないのではなかろうか。スペースが広いのでつい話が長くなる。

 

「ラヴズ・レイバーズ・ロスト」(シアタークリエ、2019)を観に行った。シェイクスピア未履修だが古典ベースのミュージカルならまずまちがいはなかろうと思い、実際とてもよい作品だった。よい作品だったので話したいことがたくさんあり、また下書きの感想記事が長くなっている。東京公演が終わるまでには書き終わりたいのだがどうなるか。

7月のビビを見た!の感想をいまだに書いてるの、もう流石にどうかと思うがめちゃくちゃに名作だったのでインターネットの片隅にでも記憶を残しておきたい気持ちがある。よかった。ほんとうによかった。

 

舞台だけでなく9月に見に行ったクリスチャン・ボルタンスキー展の感想も長い。本当に話が長い。いまのうちからこんなに話が長くて老人になったころにはどうするんだろうか。

 

新国立小劇場のことぜん3部作、ぜひ観たくて楽しみにしていたのだが日程がどうも行けなさそうだな…?と気がつき、チャンスだった三連休も台風の予報で天を仰ぐ。LLLを観たいま「どん底」観たら絶対クリティカルヒットを喰らうと思うのに…!

せめて「あの出来事」は観に行きたい。あぁ、しかし、台風どうにかならんだろうか…。戯曲だけでも買いたいな…。

 

9月に祖母の長寿を祝うため沖縄へ行った。昨年よりも元気そうでよかった。父方の祖父母と母方の祖父が死んだので、残る祖は母方の祖母だけである。大病をしているので元気なわけではないのだが、また祝いの席を設けられるといいと思う。母が買った派手な赤の腕時計を「上等ね」と喜んでいた。

 

創作物の沖縄出身者が「上等」というところをあまり見ないが現代沖縄では頻出単語だと思う。沖縄のイオンに日焼け止めを買いに行った際、「すげーな、イオンてどこでもイオンだな、沖縄に来てるってのは勘違いでこれうちの近所じゃなかろうか」と思いながらぼんやりしていたら近くを通ったギャルたちが化粧品かなにかを吟味しながら「なんねこれ?見たことないさ」「上等かねぇ」「上等よぉ一個ずつカプセルだもの」と話していて、ウワ!一気に沖縄!と思った。

 

観光で美ら海水族館にも行った。子供の頃には「サメだ!でかい!さかなだ!いろいろ!」というざっくりした興奮だったのが、大人になったいまは「オジサン!ユウレイボヤ!カイロウドウケツ!ヨダレカケ!!アンボイナ!!すげえ!!本とか平坂寛の記事でしか見たことねえ!!!」という具体的な興奮になった(生物ライター・平坂寛さんのファンなのでよく記事を読んでいる)。子供の頃より断然知識があるので、いまのほうが楽しいかもしれない。

あとサメの部屋に鮫皮を触り比べられるコーナーがあり、「よく刀の拵に使われてる白い粒のたくさんついた鮫皮に似てるのがある!あっでもこれエイの皮なのか…」と思ったら、あとで調べたらあれはエイの皮であっているらしい。

 

映画をよく見逃すのだが、珍しく逃さず見たいと思う映画がある。「ジョーカー」が多少のネタバレ含みで流れてくる内容を見る限りおそらく好みである。ただアメコミにうとく、かろうじて人に薦められて借りたバットマンダークナイトくらいしか知らない(ダークナイトめちゃくちゃ面白かった。もともとヒーローものにうといためダークヒーローという概念があまりぴんときていなかったのが、光では闇に飲み込まれてしまうから、闇を渡ってゆくことができる蝙蝠のバットマンでなければヒーローとして立ち続けられないのか…!と一発で納得いって映画ってすげえと思った)。どうしたものか、せめてバットマン3部作は履修した方がいいのだろうか…と悩み、職場の映画に詳しい人に「ジョーカー観る前に見た方がいいやつありますか」と聞いた。

ジョン・ウィック!!!!!」と返ってきた。

そうくるのか…。

1しか観ていないので2と3を早急に観て劇場に行こうと思った。

気づけばぼやぼやしていた、当たりの舞台、エアロバイクと睡眠

ぼやぼやしているあいだに元号はかわり、大型連休は過ぎ去り、と思ったらお盆も過ぎて、いつのまにやら空気に秋の予告がまざりはじめているのだった。

ぼやぼやしていることに対して冷水を浴びせられるような舞台(ゴドーを待ちながら)を観、たいへんたいへん感銘を受けたのだが、生来のぼやぼやはすぐにはどうにもならない。

 

ぼやぼやしている間にもいくらか舞台を観た。

ピカソアインシュタイン

ゴドーを待ちながら(昭和平成/令和)

・ビビを見た!

どれも大変大変大変よかった。三者三様にたいへん美しい舞台だった。

 

ビビを見た!については長い感想をえんえん書いているが長いのでなかなか書き終わらない。1万字書いたがまだ終わらない。あれもこれもと語りたくなるちからのある素晴らしい作品だった。演出と原作にない追加シーンがよくて、作品のことを噛みしめるたびに「天才…演出が天才…」とうめいている。

 

ゴドーを待ちながら」は昔の名作をいまやる意義をひしひしと感じさせる上演だった。年齢の倍くらい異なるWキャストというのがおもしろそうで、あとタイトルは聞いたことあるけど観たことないし話も知らないな…というだけで2公演分のセット券を買ったのだが本当によいことをした。観た6月当時の感想を日記に切れぎれに書き留めたものがあるので、そのうちまとめて成形しようと思う。

舞台というのは監督や演出によってかなり見え方が変わるというのはわかっていたが2バージョンが同じ本を演出とキャストの違いだけであんなにもあんなにも違う世界を見せてくるのかと思った。

熱を込めてアンケートを書いたがそういえば映像化希望と書き忘れたな……。

 

ピカソアインシュタイン」も年齢の離れた2チームによるWキャスト公演で、ただしこちらは役をスイッチするので、全日両チームが出るものだった。役者は自分のセリフがどちらなのか分からなくなるらしく(相手役のセリフを喋りそうになるとのこと)、大変だろうが面白かったのでまたこういうタイプのWキャストが観てみたい。この作品はアインシュタイン役の村井良大さんのファンなので観に行ったのだが、同じアインシュタイン役の川平慈英さんのパワフルさが爆発していて、テレビよりも舞台で観たほうがなんだか馴染むしとてもチャーミングな人だな…と思った。なんというか過剰という言葉が一番しっくりくる感じで、それがアインシュタイン役によく合っていて、とても素敵だった。推しがすてきな方と共演してうれしい。村井アインシュタインもおっとりしているときと興奮しているときとの振り幅が大きくてまた違うアインシュタイン感がありよかったです。また20年後に同じ役をやってほしいと思える作品に出演してくれてうれしい…。推しが自分好みの作品に出るのはうれしいものです。

 

ほかのふたつは戯曲や原作絵本を手に入れたのだけれど、ピカソアインシュタインだけはなにもない。観劇した当時にいくらかとったメモがあるだけであるが、それも記憶をもとにした書き起こしなので不正確だ。とても美しいセリフがたくさんあった。画商のサゴがマティスの絵について語る場面や最後の乾杯が特に好きで書き留めたのだけれど、ほんとうは全編一言一句漏らさず書き留めたかった。

さまざまなシーンを思い出しながら、それぞれを飴玉のようにゆっくり転がしている。また観劇時には「なんとなくいいんだけどなにがいいのか具体的にはなにもわからん」と思っていたシーンが後日本を読んでいて急に「これだ…!」と結びついたりして楽しい。ピカソアインシュタインの取り合わせについてはなんとなくおもしろい取り合わせだなと思っていたが、以前聴きに行った画家と科学者のトークショーの感想を読みかえしていたらふと腑に落ちた。「科学の進歩は人の成熟よりも早いので、心をもたない科学は心をもたない芸術と同じように危険なものだから、芸術には科学を助けてほしい」というようなことを言っていて(記憶を基にしたメモからの不正確な引用)、ピカソアインシュタインの(舞台作中の)出会いは創作なのだけれど、でも必然のように思われた。美しい作品だったな……。

 

舞台の話が長くなった。

ほかの話も書いておこう。

 

先月ペダルだけのエアロバイクを買ったので、体調を崩しているとき以外はまじめに毎日漕いでいる。賞与をもらったので、適当と思われる額を消費に充てた。そのうちのひとつである。1万円ちょっとだしペダルだけなら邪魔にならないのでいいだろうと思った。

買った動機はシンプルに、痩せよう…と思ったからである。そちらの効果はわからないが、寝つきが良くなり、数日で脚のだるさが解消した。代謝が悪いのか汗腺が少ないのかあまり汗をかかず、夏はすぐ熱がこもってつらいので、すこしは改善することを願ってせっせとこなしている。

外でさんざん遊んでいる子供の頃から寝つきが悪かったのでもう入眠が下手なのだろうと諦めていたが、大人になりそこそこ経ち、体が疲れれば寝るようになったらしい。歳を重ねて無茶なことをこなすだけの体力が消えていくのをおお……と悲しんでいたが、便利な面もある。

なるべく努力してよい歳を重ね、子供のころに考えていた「大人」になりたいものだと思うが、自然の加齢そのものにも利点があるのだな。

 

うっかりぼやぼやしてもいい理由をみつけてしまった。ぼやぼやしないようにしよう。

履き潰す暮らし、洗えるサンダル、コウペンちゃんと自己肯定感、褒められる天才の友人

ひさしぶりにきっぱりと雨が降っている日だった。

雨靴を履くのが面倒でスニーカーを履いたら三歩くらいで足の裏が明確に濡れた。しみこんだとかではなく裸足で歩いたのかと思うくらいピシャッと濡れたので、あとで見てみると足の上半分(つまさきとつちふまずの中間)のあたりに裂け目ができていた。経年劣化で割れたんだろう。

足に良くないとはわかりつつも安物を履きつぶして暮らしている。駄目になったことを明確に感じるのは雨の日だ。晴れていれば少々小石が入るくらいなんでもないが水はだめだ。ものすごくテンションが下がる。靴の中が濡れたままでテンションが下がらない人間のほうがレアだとは思うが本当に足が濡れていることが(正確には湿った布に包まれていることが)嫌いだ。幸せの定義をきかれると「適温の部屋で足が乾いた状態で美味しいものを食べる」と答えるくらい足が乾いていることを重要視している。「足が乾いた状態で」というと人はたいてい笑うのだが、昔、雨の日に空調のきいたカフェでおいしいケーキを食べながら(いま足が乾いていたら幸せだったのにな…)と思ったことがあったので絶対に入れる。

暖かい時期はサンダルで暮らしている。洗えるサンダルというのがあって、一万円弱程度だが雨が降っても平気なので重宝している。素足で履いていればそのうち乾く。

でもまだサンダルをつっかけてもいいような気候ではないしスニーカーがないと困る。また安物を買いに行こう。

 

コウペンちゃんをあつめている。グッズではなくゲームの話である。

コウペンちゃんはなんでもほめてくれるコウテイペンギンのあかちゃんのキャラクターで絵がかわいいのだがそれ以上に「生きてることをほめる」ことに対するハードルを下げてくれたところが好きだ。

 

自己肯定感が低いというやつだろうか、他人に褒められるのが苦手だ。よく知らない人なら社交辞令を言わせて申し訳ないと思うくらいで済むが、よく知っている相手なら気を遣わせて申し訳ないと思い、さらにそこから「気を遣って嘘を言うような不誠実な人間だと思っているのは相手に対する侮辱ではないか」「しかし本心からならさらに気が重い、何か良いように勘違いをしてくれているのだろうが詐欺を働いている気分だ」「でもその内訳がどうであろうが褒めるために相手は思考とアウトプットというコストを払っているわけだからその労力を受け取るのは礼儀のうちだと思う」「そもそも褒めるというのは相手の考え、感受性に基づくものであり、その対象が自分だからといって相手の考えを否定するのは失礼ではないのか」と角度を変えつつ延々と自分を責めることになる。言ってもいいくらいの身内にはそういうわけで面倒だしあまり好きではないから褒めるなと言ってある。卑屈が突き抜けて傲慢に裏返った形だ。

 

オタクなのでツイッターではさまざまなジャンルの「生きているだけで褒めてくれるbot」的なものを目にしていたが、前述の理由からべつに褒められてもやる気は出ないだろうとおもっていた。精神が低調なときに「生きていてえらい」とか、命をかけて戦ってるようなアニメキャラに言われたら「無意味に生きていてすみません…」としか思えないんだこちらは(素直に褒めてくれてうれしくなる人は褒められる才能があって素晴らしいと思う)。

しかしコウペンちゃんはツイッターでイラストがバズったのち、LINEスタンプとして販売された。自分が他人を褒めるときに使える。かわいらしいキャラクターが「ご飯を食べてえらい」とか「目が覚めただけで満点」とかいうのだ。絵がかわいいのでバカにしているのではなく癒し目的であるのが明確である。購入して友人にことあるごとに送った。夕飯の写真が送られてくれば「ごはん食べてえらい」、どこどこに遊びに行ったという話を聞きながら「えらい」、仕事に行けば「えらい」、風呂に入れば「えらい」、起きれば「えらい」。私が送られる側ならストレスで発狂していたと思うが友人はたいへん褒められる才能があり、素直に「そうだろう、えらかろう」という反応をしていた。おいしいご飯や楽しいおでかけなどをすると教えてくれたので褒めさせてくれてありがとうと言いながら褒めた。なにを褒めても「いいだろう?」と言いながら褒め言葉を受け取っていた。最高の友人である。

 

そうやって友人の日常を褒め続けた。生活のあらゆることをえらいと褒め続けた。スタンプで足りない内容のことは文章で褒めるようになった。以前はやや安全に関して迂闊なところのある友人が心配で小言を言ってしまう(鍵はかけろ、賞味期限を気にしろ、道端に落ちてるものを不用意に拾うな)ことがあったが、褒め続けているうちに「鍵をかけ忘れるならちゃんと鍵かけたか聞けばいいのか」「多少賞味期限切れたものを食べてお腹を壊さなかったんだから免疫の高さを褒めよう、賞味期限切れずに食材を使い切ったらもっと褒めよう」「道端に落ちてるものを拾っても手を洗えばいいのだし褒めよう」と思うようになった。なんだろう、寛容とか前向きとかという言葉とは違う種類のもののように思う。いかに褒めるか、いかにネガティブなワードを使わないかというモードに入るスイッチが、友人相手にのみではあるができたようだ。鍵に関してはさすがにうるさいと怒られたが、褒めの種類の増加については「どこまでも拾ってくるな」と感心されただけで受容された。本当にいいやつだと思う。

友人もいつからか私を褒めるようになった。「仕事に行ってえらい」と友人を褒めると「お互い働いててえらい」と返ってきた。「寒いのにシャワー浴びてえらい」というと「湯船に浸かってえらい」と返ってきた。褒められてもこれはストレスにはならなかった。言葉のラリーとしての遊びだと認識していたからだと思う。

年単位でそんなことをしているうち、ふと「もしかして、自分、生きていてえらいのでは…?」と思った。

 

自分が生きているのは資源の浪費だと思っていた。なにをしていても「本来これを得るはずだった人間の取り分を不当に横取りしているのではないか」という不安感があった。運の良さだけでたまたま見逃されてこんなに長い間生きてしまっていたがいつかツケを払わされるのだと思っていた。しかし死にたくはない。「死後の世界が無いという確証がないかぎり、死んだあとが生きてるうちよりマシなんて保証はねえんだ、死にたくねえ」という気持ちのほうが強い。そういうわけでなんとかお目こぼしを続けて欲しいと思っていた。

そういう感覚が無くなりはしないにせよ、他人を褒め続けているうちに「生きていてえらい」という考えかたが自分にも染み込んできて、「えっ、生きてても、もしかして、良いんでは…?」と少しずつ思うようになった。

 

相変わらず褒められるのは好きではない。そこまではまだ行っていない。でも最近「金を払ったら好きなものが買えるんだな…?」ということにも気がついたので、すこしずつだがなにかが育っているのだと思う。いや、金はかなりのびのびと趣味に使っているほうだが、たとえば履き心地がよく足に良いしっかりした作りの20万円の靴とか、あれは買っても良いから売ってるんだな…ということに気がついたのだ。買ったら怒られる気がしていた。べつにそういう家庭で育ったわけではないのに何故だろうな。

冗談でも自分を肯定するようなことが言えなかったのに最近は「まあ生きてるしいいんじゃないですかね」くらいは言うようになった。人間としてのマシ度はともかく生きていきやすさは上がった。

 

コウペンちゃんというキャラが生まれて、それが手軽にコミュニケーションツールで使用できる時代であって、(これが一番なのだが)褒められる無類の天才が友人にいた、すべては運の良さであり私は何もしていないのに「生きてていいのでは?」と考えられるようになりすこし人間社会に適応した。運の良さだけで生きているなと思う。やっぱりいつかツケを払わされるんじゃないのかこれは。

 

そういうわけで(?)コウペンちゃんが好きなのでアプリを遊んでいる。のんびりやるアプリだろうから攻略は見ないことにしている。つつくと花が飛んでかわいいし、「お米はたくさんあるからなくならない」という世界観がイカしていて良い。お米がたくさんあるからなくならなくていくらでもおにぎりが作れる世界、どこかの天国では頭の痛くならないお酒が飲み放題だというのを思い出した。

広告動画に死ぬとか殺すとか出てくると世界観の温度差でうーんとなるのと、料理の持ち時間は一度作ったらレシピ画面でわかるようにならんかなーというのは思う。まあそのうちいろいろ手が入るんだろう。

金を払ったら動画見なくても良くなるみたいなのないのかな…と思って、コウペンちゃんを金でどうこうしようとすな、と自分で思った。

 

そういえばもうひとつ肯定ペンギンのスタンプをもっていてそちらも便利につかっているが、会話の肯定的な相槌に使うもので、褒めるというニュアンスではない。かわいすぎずシュッとしているがあたたかみのある具合の絵が好きでこちらも続編が出ればいいのにと思っている。

友人にはたいてい「満場一致」とかかれたスタンプを送っているが、満場一致していなくても送るので「ゴリ押すな」と怒られる。

外読書、たぶん虻、電圧と抵抗、辛夷の終わり

公園に本を読みに行ったら花見客でにぎわっており、あっ、そ、そうですか…となった。いつものベンチに座るつもりがまったくどこもかしこも空いていなかったので適当な木陰に腰を下ろした。

本は外で読むと捗ることに最近気がついてきた。家で読むとつい録画を見たり布団で寝たりこたつで寝たりしてしまう。大体寝る。いわゆるロングスリーパーなので平日は睡眠が足りず、睡眠負債が常にそこそこ積まれている。

カフェでゆっくりするのが苦手なのでどうしたもんかなと思っていたが気候が良くなってきてそうか公園という手があったな…と最近よく出かけている。

桜の木のしたでの読書は風が吹くと花びらが散ってきてよかった。そこらへんでいろんなひとがいろんなことをしていて見ているのも面白かった(公園でバトミントンとかフリスビーをして遊ぶカップルって漫画だけじゃなく実在するのだなぁと感心した)。

虫がいるのは少し困った。歩くだけなら勝手に歩くがよいと脚の本数を問わず思う存分通らせたが、刺すタイプの虫らしい羽音がすると少しこわい。蜂か、と思ったが、草に止まっているときに両手を蠅のようにすり合わせていたのでたぶん虻だったんだろう。どちらにせよ刺すので立ち上がって適当に扇ぎどこかに行ってもらった。

 

短編集の半分まで読んだところで夕暮れになって寒くなったので帰った。いつもは人がいなくなる時間帯でもまだわいわいにぎわっているので桜はすげえな……としみじみした。

上を見ると白や薄紅の桜が、下を見るとスミレやたんぽぽやホトケノザが咲いていてびっくりするほど春らしい。

 

という週末を過ごし、まあ充実していたなとは思うが、平日にしぬほど眠いと「休日はおとなしく寝てたらどうなんだ」と週末の自分に対するいらだちがムラッと湧いてくる。

 

クイズ番組を見ていてなんでこんなの間違うんだろうなと思うことがよくあったが今日電圧の単位を聞かれて「オーム…」と答えてしまったのでもうなにも言えない。

オームは抵抗の単位だな。わかってる。わかってるけど引き出し開けてみたらその単語しか入ってなかったんだ。ちげーなと思いながら言った。

 

健康診断の結果がそこそこ改善しておりにこにこしているが家系的に肝臓と腎臓はこれからも気をつけていきたい。

肝臓や腎臓に負担のかかるものについて調べると過激というか根拠をあまり具体的には示さず食べるな!しぬぞ!こわいぞ!と脅しつけてくる健康サイトが出てくるので困る。なにせボルトとオームを間違えるのでなぜ○○は負担がかかるのか?とかの理屈に辿り着けない。世の中全員知っているからいまさら教えてくれないんだろうか。根拠のわからんことを言われてもいまいちな…という顔をしながら結局負担がかかるといわれる成分を含んだものをそこそこ食べている。

 

帰ってくるときに眺めていた街路樹の辛夷が散ってしまってさびしい。暗い中に大きい白い花がふかふかと豊かに咲いているのを見るのを毎年楽しみにしている。

花の名前は数えるほどしか知らないが豊かなので見る花見る花わかるひとの世界はどんなによいかと思い、最近はリンネレンズの課金を検討している。

 

スロウハイツの神様(再演)を観たんですよ

週末は劇団キャラメルボックススロウハイツの神様」を観劇。

初演がとてもよく2回観て2回ともずべっずべに泣いた。

DVDも購入し観るたびにずべっずべに泣いた。

再演もそうだろうと心して観に行ったが物販でラストシーンの写真を使った缶バッジがあるのを見た瞬間ず……くらいにはなった。ずべ…までくる前に急いでパンフレットと缶バッジと欲しかった別作品のDVD(無伴奏ソナタ)を買った。

観終わったあと、握っていたタオルハンカチはずべっずべだった。やはりなという気持ちだった。(おそらく初見の客が)笑うシーンでもたいてい感極まって泣いていたのでとなりにこいつがいたらうっとうしかったろうなと思う。声はたてていなかったので許してほしい。周回してると泣き所が増えるんですよ。

 

舞台はみにいくがなにも詳しくないしキャラメルボックスを観に行くのも3作目(DVDはあと4作ほど観た)なので検索でそういうあたりの話を期待してきた人には期待には添えず申し訳なく思う。なんかよかった〜〜という話しかしていないので。

 

役者がみなよく生きていて観れば観るほど全員のことが好きになる舞台だった。長い感想を書こうと思っていたが感極まりすぎてあちらこちらに話が飛ぶのでメモで整理しながら改めて今度書こう。

物語として好きなシーンを挙げると公輝と環の話に偏りがちだが、演技の好きなシーンだと小春の回想に「お祖母さんどうしたの?重い病気?」と狩野がいうシーンが初演からなんだかやけに好きだ。恋人の話に親身になって耳を傾けている狩野の人柄がよく出る言い方だからだろうか。

あと入居時に公輝と出会った狩野が、会話するなかでその目に映る相手が「憧れのジュブナイル作家・千代田公輝」から「孤独で不器用なただの千代田公輝」に変わって、どうしたって絶対に友達になりたいと心を強く掴まれている感があってよかった。

 

RENTをこよなく愛しているので環と公輝の関係性がRENTのFamilyやLoveの概念では?とすぐ思って感極まりがちである。恋愛が矮小な概念だというつもりはないしふたりのあいだにはたしかに恋愛関係があるのだが(というか恋愛関係に辿り着けたことが最高なんだよな)、環と公輝のおたがいに希望を灯しあうような関係性を「男女間に発生した感情」という点のみをとって恋愛として括られて解像度低く咀嚼されたら奇声をあげて追いかけまわすと思う。オタクなので、好きな作品への批判よりも好きな作品に対する粗い解釈に耐えられない。といいつつ原作未読なので私は原作ファンから奇声をあげて追いかけまわされる側であろうな(追い課金として帰りに物販で原作小説を購入したのでそのうち読む)。

男女の間に発生するものを全て恋愛として雑にくくる人間に対する憎しみがあるのでつい恋愛ではなくもっと大きいカテゴリとしての愛なんだよ!!!!と口が滑りそうになるが環と公輝のあいだには恋愛がある。そこは間違えないでいこうと思う。理解力不足で誤った解釈をするのは仕方ないことだが自分の主義主張に合わせて作品をねじまげていないかどうかについては常に自省していきたい。

 

回限定でみられるショート作品が補足した情報にもだえた。狩野と正義が仲良くなる経緯は人と人との関わりの奇跡がコンパクトに詰まっていてきらきらしていたし、公輝が家族以外の人間に物理的に接触されるのが苦手というのにはウッとなった。家族以外の手料理は食べられず、家族を失った公輝に、家族を与えようとした環、愛じゃん……。

 

書いていてふと思ったが環と公輝の愛には欲がない。いやあるんだけれど「私の幸せのために相手に○○してほしい」ではなく「私の幸せのために相手に○○してあげたい」というのが強い動機だ。彼らは相手に対価を求めない。すでに相手からもらっていて、それに報いたいという愛だ。人生を愛で数えている……。

 

再演は追加シーンが良く全体的にたいへんよかったが、スーがスロウハイツを出て行くシーンのギャグが削られていたのと、章立ての演出が板書ではなくスクリーンに変わっていたのとは両方とも好きだったのでちょっと残念だった。でもまあ前者はテンポ、後者は可読性の点でしかたのないことなのかなと思う。

出て行くときに冷蔵庫の中身の賞味期限を気にするの、料理上手なスーの人柄が出てる感じで好きだったんですよ。私がいなくなってもみんなちゃんとごはんたべてね的な心配をしている感じというか。

 

再再演があったらたぶんそのときも観に行く。

そう思う作品があることは幸せであるなと思う。

ゾンビ物の夢、茶の間ファン、桜色の髪、ソシャゲ疲れ

今日も悪夢を見た。よくあるゾンビものだが混乱の渦中にいると怖いもんは怖い。

リボ払いの夢のように起きてからも現実かどうか混乱するようなタイプの悪夢はあまり見ない。大抵は三流ホラー映画のようなものを見ている。クリーチャーだけは妙に怖いデザインが出てくるが、そういう恐怖物のクリエイターの夢に行ってほしい。

いままでに見た夢のこわかったクリーチャーについて書いていたが書いていて怖くなったので消した。

 

間が悪く興味のある番組がなかったので録画しているお笑い番組をいくつか流す。いわゆる茶の間ファンというやつなので全く詳しくないが、最近またネタ番組が増えてきたので嬉しい。

ネタ番組宮下草薙が出ているとうきうきして見る。宮下草薙は草薙の濃いキャラ押しかと思っていたが年始のネタパレで草薙がネタを飛ばしたときの宮下のフォローが器用だな…ツッコミが控えめだと思っていたがこれ普段は相方のキャラを活かすためにあえて引き算のツッコミを選んでいるのかな…と感じ入った。

ネガティブな妄想を自虐ネタに持っていくのではなくネガティブなまま突き抜けさせていって笑いにするのがなかなか珍しいと思う。あのレベルではないにしろ後ろ向きに生きているのでどことなくあるあるネタのような気分で見ている。草薙のキャラはおそらく素なんだろうが(ネタ飛ばした時に相方の袖を引くのとかマジのやつじゃなきゃ思いつかないだろう)、演じてやってたら天才的な観察眼と演技力だと思うので、どちらにしろ引き続き贔屓にして見ている。まあ、茶の間なんで、贔屓もなにもないですが。

 

ネタパレを毎週見ているのでNEWSのまっすーさんの顔がわかるようになったが名前はうろ覚えである。

いつ見てもピンクの髪なので顔が良いと髪がそんな二次元みたいなピンクでもいいのだな…としみじみする。このまえは桜色で春めいているなと思った。

NEWSの人はみんな犬種の違う室内犬のようでかわいい顔だなと思うが、たぶん歌って踊っているとかっこいいのだろう。歌番組に馴染みがないのであまりそういう本業の姿を見たことがない。そもそも人の顔の区別が曖昧なのでNEWSだと思ってる4人がNEWSではない可能性もある。

 

ソシャゲをあれこれやっている。

流行りのものというより自分が好きなのを無理のない範囲でぬるく遊んでいる。ここ数年はアイドルゲーをやっているが、運営のこの方向性に金を払いたくないな〜と思うことがちょくちょくあり、いまはやる気が失せていて、最近はログインボーナスくらいしかもらっていない。

 

いまいちばんまじめにやってるのは電子ペットの世話。

次いでパズルゲーム。

両方かわいいのを眺めてるだけでいいので脳にやさしい。

パズルゲームは原作漫画のファンなので好きなキャラを贔屓して育てている。最近実装されたボイス付きキャラの勝利セリフが好きなバトルのクライマックスのものでとてもテンションが上がった。

 

明後日観る舞台の復習(初演DVDを観る)しようと思ってたけどねむい。

ぶっつけで見よう。