クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

意識の低い短歌の愛でかた、あるいはまだ見ぬ「風景」への希望

最近、急に短歌が楽しくなった。カッ!!と目がひらかれたように、短歌が見えるようになった。なにがあったのかというと「ハイキュー!!」(古舘春一)にハマったのである。いえ、同名別作品とかではなくて、はい、ええ、そうです、あのジャンプで連載しているハイキュー!!です。バレーボール漫画を読んで短歌がわかるようになるとは本当に人生は何があるかわからないものですね。

しかしそういえばわたしが短歌に触れたのも漫画からだ。もちろん授業で触れたものはいくらかあったが、愛誦できるほど好きだったのは俳句の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」(三橋鷹女)くらいで、あとは白鳥はかなしからずやなにがしのーとかたとへば君ガサッと落ち葉ホニャラララ、は読んで覚えてはいたものの愛誦するという感じではなかった(どちらもいまでは好きな歌である)。はじめて「あ、覚えたい」と思ったのは「積極」(谷川史子)という少女漫画に引用されていた、「青林檎与へしことを唯一の積極として別れに来けり」という短歌である。とても美しくて、河野裕子という名前とともに覚えていた。そのあとで河野裕子永田和宏の相聞歌集を買い、さらにそのあとしばらくして「近代秀歌」の作者が永田和宏であったので、おお!名前がわかる!というだけで買ったのだった。収録された歌百首以上について、作家や時代の背景・文学史的な立ち位置・歌としての技巧・歌に詠まれた情景の提示がされており、短歌についてずぶの素人の私でも収録された歌について学びながら美しさを味わうことができた。それでいて「……というのがこの歌の背景だけれど、それに縛られてはつまらない。もっと広く美しい読みを取ってもいい」と言い切ったりする、大変におもしろく衝撃的な本であった。

短歌、文芸、もっと大げさに言えば芸術を鑑賞する態度について、「無知や野放図と自由は違う」とたしなめつつも、「鑑賞はもっと自由だ」と許しをあたえてくれるような本だと思った。短歌の読み方だけではなく、芸術を愛する態度について教えられた。非常な愛読書となり、続刊の「現代秀歌」とともに、付箋を貼り繰り返し読んでいる。読むたびに、足りていない部分を戒めるように肩を叩かれ、同時に自信のない背筋を叩いて伸ばしてもらえるような心持ちになる。

知らないということは決して恥ずかしいことではない。しかし、「知らない」ということに対しては慎み深くはありたい。知らないと言ってそっぽを向いてしまうのではなく、知らないけれど、できれば知りたいとは思う。

(「現代秀歌」(永田和宏/岩波新書)P245-246)

この文章に触れたとき、「知る」「知らない」ということについて長年抱えていた言葉にし難い靄が一気に晴れた思いがした。「知らないことはよくない」とか、「知ろうとしないことはよくない」とかではなく、「慎み深くありたい」という表現が染みた。キャパシティがあまりないので、興味を持ったものすべてを調べることができず、また調べても難しすぎて咀嚼できないことも多い。知らないことがある、ということへのストレスがあった。知ろうとして、知ることができなくても、「知ろう」という心を失わなければ、いつかは触れることができるかもしれないと思うようになった。

 

それでいて長年短歌、とくに時代が下がっていくほどに大変な苦手意識があった。感受性に欠けているため、三十一文字はあまりにも短く、なにを言われているのか掴みかねることが多かった。わかっても好きな歌とそうでもないな……というものもあった。

たとえば、世を憚る恋を歌った「相触れて帰り来りし日の真昼天の怒りの春雷ふるふ」川田順)や、愛しい夫を追いかけてついに再会した喜びにあふれる「嗚呼皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟」与謝野晶子)、ものごとの見え方を知ったときの目の開きかたを詠んだ「馬と驢と騾との別を聞き知りて驢来り騾来り馬来り騾と驢と来る」土屋文明)などは最初に読んだときからスッと好きだった。

しかし、「あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」小野茂樹)などは、なにを言っているかはわかってもスッとしみてこない状態だった。情景はわかる。恋人の話をしているのだろう。もう戻らないあの日の、表情だけでも見せてくれ、そう恋人に乞うているのだろう。なんとなく、秋の青い空を思った。夏の苛烈な青さに似た、しかしもう少し透明度のある秋晴れ、温度と湿度の違う空気の中、恋人に求める表情は曇りなき幸福であったころの笑顔であろうと思った。そして恋人はもう自分にそんな顔では笑わず、その笑顔は秋の薄雲がかかるようにわずかに違う色をしているのだろうと思った。またこの歌にふれたのは「現代秀歌」なので永田和宏の鑑賞がついており、そこでは「青春の一回性、もどらない時間への強い思い」ということが解かれていた。美しい歌だと思った。思ったが、そこで手触りが止まってしまうのだった。

で、ハイキュー‼︎を履修*1してからなんとなく現代秀歌を読んでいたとき、この歌を読んで突然「お、お、及川徹!!!岩泉一!!!!!」になった。エウレーカ!と思わず立ち上がった(情動と身体が結合している人間なので、興奮すると立ち上がる)。未読の人向けに説明すると、及川徹というキャラクターは、高校バレーを題材にした物語の中で、主人公のひとりの師匠兼格上のライバルにあたる他校生だ。就いているセッターというポジション(主に攻撃に繋がるトスを出す扇の要的な役割)における県内トップクラスの選手である。「青葉城西(強豪校)の及川」の名は広く知られており、攻守に優れた司令塔として強豪チームをまとめている。その及川には、精神的なタフさ・ブロックを弾き飛ばすパワー・広い視野で戦局を読めるクールさをもつ知勇兼備の優秀なエース・岩泉一とコンビを組んでいてなお中学時代からずっと勝てずにいるライバル・牛島若利が他校にいる。物語の中、及川と岩泉は何度も牛島に敗北する。「おまえは(自分と)同じチームで戦うべきだった」という牛島に、しかし及川は同じ学校で共闘する道ではなくライバル校として叩き潰すことを選んだのは間違っていなかったと、何度負けても言い切る。

ここで歌に戻る。「あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」。「あの夏」は、四季ではなくインターハイやそれに相当する、試合という選手のもっとも熱く咲き誇る「季節」だろう。数限りなく挑み、そして敗北してきた彼らの「たつた一つの表情」は、しかし泣き顔ではない。涙ののこる眦で、それでも不敵に歯を見せて笑って「次こそは」と誓う、不滅の炎に照らされたうつくしいファイターの決意である。及川と岩泉が互いに「たつた一つの表情をせよ」と相手に求めるのは、請願ではなく信頼だ。俺は強い、おまえは強い、俺たちは強い。何度だってどこでだって最強の六人になって、次こそはあいつを倒そう。何度地に叩き伏せられても顔をあげることはやめない、自分は、そして自分の相棒はそういう男だ、という信頼ゆえだ。岩泉「一」と及川「徹」、ふたりの名前があわさると「一徹」となるのは、かれらの勝利へ焦がれる心がどちらかだけではなく分かち難くふたりのものであるということなのだろう。

もちろん、恋の歌をこう取るのは不適切だろう。それに外側の全く関係ない文脈を持ち込んでいるのだから、元の歌よりも情報が増えるのは当然であり、まあ、邪道である。それでも、「きれいだな」と思っただけでそこから先に行けなかったものに思い切り手が触れた、そこに確かに熱い滾りの感触があると思った瞬間、「この歌が大好きだ」と思った。最初に自分なりに取ったように、また永田和宏の鑑賞のように「恋の情景」として見たときよりも、この取り方のほうが私はずっと好きだ。歌のなかに詠まれた感情にたしかに触れたと思った。恋というならば、及川と岩泉は勝利へ恋をしている男たちなのだからいいではないか、それが特定の個人への烈しい感情という点では恋心もライバル心も持つ熱は同じではないか、とも思った。

文化を大切にするということは、それを高みに奉って眺めることではない。大切にしまっておくことでもない。自分たちの財産である文化は、日常のなかでこそ活かしてやるべきなのである。日常会話の端々に、詩歌のフレーズがチラッとかすめたり、ある場所や風景に出会ったときに、一首の歌をかすかに思い起こしたりすることが、文化を〈自分たちのものとして〉大切にするということであろう。

(「近代秀歌」(永田和宏/岩波新書)P245−246)

誠に都合のいい解釈だが、漫画という「風景」に出会ったとき短歌を思い浮かべたことで、ぱあっと視界がひらけたような気がした。自分が、自身の経験として見ることができる「風景」は一人分である。しかし小説や漫画や舞台、そういったさまざまな「風景」に出会ったとき、それまで理解はしても身にはなっていなかった短歌が手ごたえをもって落ちてくる可能性があるのなら、もっとたくさんの美しいものが見られるのではないかと思った。背景や鑑賞を見てなお文字でしか感じとれなかったものが、その歌を詠んだ瞬間の、種類は違ってもどうしようもなく動いた感情の大きさに触れられるのではないか、と思った。重ねていうが、邪道であろう。しかしたどり着けないよりは楽しい。楽しくなければ持続的に触れる興味ももてないので、アクセスする手段が増えたことはとてもうれしい。

 

そういう視点を得てから買った歌集は、やはり「なんだかわかんねえな」と思うものもあれば「見えた!!」とはしゃいでしまうものもあった。でも「なんだかわかんねえな」と思っても、いつかその歌がぴったりくる風景を見てからもういちど触れられるのかもしれない、という希望があると、わからないこともつらくはない。「知ろう」という心を持ち続ければ、いつか知ることができる、いまはそう思える。

歌自体のイメージだけでは「美しいな」と思うだけで近づけなかったものが、なにかの風景と重ねて読むことで、感情を補って「なんて美しいんだ!!」までたどり着けるようになった。もっと研鑚を積めば、いつかは歌そのものと向き合っただけでその歌が「見える」ようにもなるのだろう。その日が来るまではひとまず、この意識の低い愛でかたで邪道を行こうと思う。

 

最近買った歌集では「リリカル・アンドロイド」(荻原裕幸)が非常によかった。簡明で色がきれいで、外部の文脈を持って来ずとも真っ向から刺さってくるような歌ばかりで、布団に転がって読みながらばたばたと暴れた。最初の方から好きな歌をいくつか引く。

優先順位がたがひに二番であるやうな間柄にて梅を見にゆく

さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに

そこに貴方がここに私がゐることを冬のはじめのひかりと思ふ

(「リリカル・アンドロイド」(荻原裕幸/書肆侃侃房))

こうして引いてみると、美しいと思うと同時に、以前であれば「なんだかわかんねえな」の箱に入れていた歌であるような気もする。何を歌われているかはわかっても、その美しさにリーチしている感触が得られていなかったかもしれない。外部から風景を借りてさまざまな歌を眺めるうちに、短歌にふれる経験が積み重なり、すこしずつ見える範囲が広がってきたのだろうか。そうだといいなと思う。

 

 

あ、青葉城西の話をしといてなんなんですが、推しは烏野(特に日向・西谷・月島)、他校だと天童です。その四人が特に好きなだけで基本的にみんな好きです。ハイキュー!!、みんなバレーが好きでとてもいいですね。はやく原作届いてくれんものか……。

*1:28巻無料キャンペーン分とアニメS1〜S3。原作全巻を注文したのだけれど、非常事態で1ヶ月経っても未だに来ないのでそろそろ電子を検討している

時間と空間を超える「リモート」の新しい魔法(「僕等の図書室 リモート授業」感想)

※今作メインキャストの中の亡くなった方に関する言及があるため、該当するキャストのファンの方が閲覧される際には充分にご注意ください。

※作品構造についての感想です。作品内容、キャストに関する感想はほぼありません。

※上演内容に関する言及(ネタバレ)があります。

 

 

締切がないとうっかりいつまでも先延ばしにするたちで、村井さんのオタクをやっているにもかかわらず「僕等の図書室」(通称ぼくとしょ)シリーズはDVDを買っただけで一切が未見である。

なので以下の文章は「まぁくんの走れメロス」「マッチ売りの少女原田」「たっきーの星の王子様」「智恵子抄(新作)」のみを見た人間の手によるものであることを了解されたい。

 

 

「僕等の図書室 リモート授業(以下、ぼくとしょリモート)」を観劇した。自粛が始まって以来はじめての観劇である。自宅ではあるが着替えて座った。観劇趣味に「劇場に行く」という儀式をもって異界へアクセスする行為を求めている節のある人間としては正直なところ自宅で観るという行為にあまり気分が乗らなかったのだけれど、観てみれば「リモート演劇」でなくてはなしえなかった美しい作品ですっかり感じ入った。

 

 ぼくとしょリモートは過去作の映像3作+リモート収録された新作1作の4作構成になっている。ストリーミング配信のプラットフォームであるe+の告知によれば、上演内容とキャストは次の通り。

 

▼過去シリーズ舞台映像

・「まぁくんの走れメロス」(出演:大山真志滝口幸広井深克彦

・「マッチ売りの少女原田」(出演:原田優一、中村龍介滝口幸広

・「たっきーの星の王子様」(出演:滝口幸広三上真史木ノ本嶺浩

▼全出演者によるリモートリーディング

・「智恵子抄」(出演:荒木健太朗、井澤勇貴、井深克彦大山真志木ノ本嶺浩中村龍介、原田優一、三上真史村井良大

(※すべて敬称略)

 

(6/7 追記)

『僕等の図書室 リモート授業』開講決定! - る・ひまわり|演劇・映画・イベント等の宣伝、制作、運営

↑本記事にて言及している作品の公式はこちらから。2020/06/14 23:59までの配信です。

ぼくとしょシリーズは、本記事で述べた文脈とはべつに、それ自体が独立したとても良い朗読劇です。文脈を離れた単品で見たとき、個人的に一番好きなのはマッチ売りの少女です。めちゃくちゃな原作改変でありながら、とても美しい物語を疾走しているところがとても素敵です。

(追記おわり)

 

作品それぞれは独立した舞台として良い作品なのだが、これが「上映会」ではなく「リモート授業」であること、ここに滝口幸広さんの存在があることにより、新しい文脈がこの構成に表れる。

まず「リモート授業」であることの意義について。ぼくとしょシリーズは「国語の先生による授業」という設定の朗読劇である。キャストはそれぞれ「〇〇先生」となり、そのうえで各作品を朗読によって演じる。だからぼくとしょにおいて「授業」という言葉は「上演」と取っていいだろう。

また、本作メインキャストのひとり「たっきー先生」こと滝口幸広さんは、昨年若くして亡くなられた方である。あまりにも突然の出来事だったから、心の準備をしていたひとはおそらくいなかった。仕事で関わられていた方々もファンダムも重く沈んでいた。あの頃、誰かしらがずっと泣いていた。大変無責任な言い方になるが、愛されていたひとが世界の舞台袖へと去ったとき、その不在を埋めるように交わされる言葉の多さで、あいてしまった穴の大きさがまざまざと目に見えるようだと思った。

 

ぼくとしょリモートは分類として「リモート演劇」になるだろう。新型コロナ禍のなかで本格的に動き出した形式であるリモート演劇は、いまのところオンタイムで演じているものと収録した映像を流しているものとのどちらも存在している。いずれは定義が定まるかもしれないが、2020年6月初旬のいまにおいては「新録した映像を流す」タイプのものもリモート演劇の「上演」として捉える考え方がある、としておきたい。

役者の身体がそこになく、リアルタイムでさえない映像なのであれば、それは既存の映像作品とどのように差別化されるのか?それを演劇と呼ぶべきなのか?リモートドラマとリモート演劇はどのように違うのか?という疑問は当然のものであると思う。私もどちらかといえばそう思った。これをオンライン上映会ではなくリモート授業(≒上演)であるとするのは、「舞台作品」のシリーズに連なる新録作品があるか否かのみの違いではないのか?と。

しかし「僕等の図書室 リモート授業」はリモート演劇の上演と呼ぶべき作品である。構造の作り出した魔法は確かに舞台でなければなし得ないものだった。

 

まず前提として「リモート」の部分を紐解こう。

本作で選ばれた過去シリーズのすべてに滝口さんが出演なさっていること、「智恵子抄」はたっきー先生(滝口さん)が二度行った授業(演目)であることから、この構成に二種類の「リモート(遠隔)」が含まれていることがわかる。

新作映像は言うまでもなく「場所」のリモートだ。現在のリモート演劇における「リモート」は、三密を避ける・ソーシャルディスタンシングを厳守する、という意味から物理的な隔たりの話であることが多いと感じる。ぼくとしょリモートの新作映像も、キャストそれぞれが撮影した映像をつなぎ合わせ、セット背景をバックに映すことで作成されている。

他方、過去作映像は「時間」のリモートだ。かつて存在した、しかしいまは存在しない、それでもたしかにあった時間を「上映」ではなく「上演」することで、隔たった時間を2020年の舞台上に呼び出した。これによって、過去作品には新たな文脈が加わり、再上映ではなく再演に等しい再解釈が行われる。

 

ぼくとしょリモート1本目「まぁくんの走れメロス」は、歌パートと多少のコメディ要素を加えつつ、基本的なストーリーは原作の「走れメロス」とほぼ変わらない。メロスを演じる大山真志さんの歌声を活かしたテンポのいいコメディタッチの作品になっているが、終盤はほぼ原作通りとなり、くじけかけたメロスが再び立ち上がってセリヌンティウス井深克彦さん)のもとまで辿り着き、王(滝口幸広さん)を改心させる。そしてラスト、セリヌンティウスと改心した王と手を繋ぎながら朗々と「生きるって楽しい」「さあ僕を信じて」と歌い上げる。

2020年のいま、新作として観るその場面は、いまはもういない人の手をとってこれからも生きてゆくことを歌っている姿に映る。ぼくたちは大丈夫だと言うように。心配しなくていいから、信じて見ていてくれと言うように。

 

ぼくとしょリモート2本目「マッチ売りの少女原田」は打って変わって大胆な原作改変が行われている。原田優一さん演じるマッチ売りの少女の人生はあまりに波乱万丈だ。マッチを売って口を糊する貧しい少女は、自分を拾いまっとうではないにせよ生き抜くための技術を授けてくれたおじさまに恋をするが、おじさまは妻子持ちであり初恋は叶わない。妻からのいじめに耐えかねた少女は家を飛び出し、流れ着いた先でおじさまに似た男と暮らしはじめるが、男はヒモの上に浮気野郎で、不実の現場に遭遇してしまった少女は男と浮気相手を射殺する。長い時間を獄中で過ごし、ようやく出てきた外の世界で、彼女は自分を覚えていないおじさまを事故から庇い、程なくして路上で死ぬ。

不運と不幸にまみれた人生を、しかし彼女は彼岸と此岸の境で出会った少女に「本当に幸せだったね」と肯定される。「いろいろ体験できたじゃない」「つらかったり楽しかったり悲しかったり嬉しかったりたくさん味わったでしょう」と言われ、「そうかもしれないな」と頷いて彼女は少女ーーおそらくはかつての自分自身と手を繋ぎ、光のなかへ去っていく。

集まった人々はぼろぼろになって死んだ彼女を哀れむ。彼らは彼女の人生を何も知らないからだ。彼女の見た美しいものが、幸せが、光が確かにあったことを知らないからだ。かつて幻影のなかに見た、恋した人と結ばれて子を得る「普通の幸せ」の景色を、彼女は「ばかにしないで、こんな未来憧れてないわ!」と叫んで振り払った。孤独でも、愛をついに得ることはなくても、貧しくても、社会のどこにも居場所がなくなっても、命を賭けて救った初恋の人が自分のことをわかっていなくても、彼が自分の伝えた「ありがとう」という言葉の理由をわかっていなくても、彼女は自分の人生を愛した。楽しいことや嬉しいことだけではなく、つらいことも苦しいことも含めて、彼女は自分をつくるすべてを愛した。世界の誰もが知らなくても、彼女は、だから幸せだったのだ。

2020年のいま、新作として観るその場面は、けれど正反対のことを訴えてくるように聞こえる。

美しいものが、幸せが、光があったことは、語られない限り他人には分からない。マッチ売りの少女の語りを聴く客席は彼女が幸せだったと知っていても、作中でそれを聞いていない人々が彼女を不幸だと思ったように、語られないものは無いのと同じだ。

語ることが必要なのだ。美しいものはあったのだと語ることが。愛したものはたしかにあったのだと語ることが。幸せな時間はあったのだと語ることが。過去に囚われるためではなく、未来に伝えていくために。

だからどうか目撃して、見届けて、知って、語って、覚えていてくれ。そういう呼びかけのようだった。

 

人の死について、以前わたしはこのように書いた。

大学の同期が死んで五年になる。都会の街なかであきれるくらいたくさんの人がいるなかを歩いていると、その何千人何万人のなかに偶然彼女がいる可能性が、もうまったくないのだということに気づいて、いつも新鮮におどろく。(略)あんなにたくさん人がいても、でももう絶対にどこにもいない。誰ひとりとして絶対に彼女ではない。世の中に絶対ということはめったにないので、死んだ人間とは絶対に会えない、ということを思い出したときの、その「絶対」のあまりの強固さに、いつでもおどろく。

世界にかけられる額縁と遠近(クリスチャン・ボルタンスキー展「Life time」感想) - クレヨン、それからカレンダーより*1

人の死はこの世に数少ない「絶対」である。それでも、そのひとを思い出すとき、語るとき、そこにそのひとは現れる。語られるかぎり、記憶があるかぎり、光は消えない。

 

ぼくとしょリモート3本目、「たっきーの星の王子様」は1本目同様、ダイジェスト化やセリフの改変などはあるもののストーリー自体はほとんど原作通りである。滝口幸広さん演じる王子様は、自分の星に薔薇を残して旅に出る。そしてさまざまな星でいろいろなひとと出会い、地球にやってきてキツネと仲良くなった、それらの愛しい思い出を不時着した飛行士に語り、毒蛇に送られて肉体を脱ぎ捨て自分の星へ帰ってゆく。

先に述べたように、滝口さんは2019年の冬に亡くなられている。長い闘病の果てなどではなく、本当に突然の、予測しがたいことだった。だからこの「星の王子様」を滝口さんがかつて演じられたとき、そこに具体的な死の気配はなかったはずだ。しかしそれでも2020年のいま、この構成によって上演される「たっきーの星の王子様」には明確に特別な物語が乗っている。

 

少しぼくとしょから離れるが、「現代秀歌」(岩波新書)より歌人永田和宏の鑑賞を引用する。なお、対象である内藤明の歌は平成初期に架空の景を詠んだもので、不穏で寂しく美しい歌ではあるのだが、とある出来事を強烈に想起させる内容であるためここには引かない。

歌を読むことは、自分の経験の総量を動員しながら読み解こうとする作業である。自分が経験、体験したことは、意識する・しないにかかわらず、歌の読みに強い影響をおよぼさざるを得ない。(中略)内藤明のこの一首は、もちろん(とある出来事)以前に作られた一首であるが、(中略)(現実に似た出来事が起きたことを)知ってしまった私たちには、それを無視してこの一首を読むことができなくなっていることには、改めて気づくことになる。

(P198)

「経験の総量を動員しながら読み解こうとする」のは、短歌の鑑賞にかぎらず、人間が不要不急のなにかを愛するときに行われる知の営みすべてがそうであろうと思う。そうであってほしい、と思う。そうでなければ物語というものはあまりにもさみしい。ストリックランドにはなれなくとも、せめてストルーヴとなり、創作者が心のすべてをこめて手渡そうとしてくれる美に対し、懸命に手を伸ばし受け取ろうとすることをやめたくはない。

 

本題に戻ろう。ぼくとしょリモートの中の一本としての「たっきーの星の王子様」は、過去に演じられた作品のアーカイブでありながら、全く異なる作品として2020年の新作の顔を見せる。肉体を脱ぎ捨てて星へ帰っていく王子様を、肉体を脱ぎ捨てて「海外出張」に出かけたたっきー先生が演じていることは、王子様のことばに、そして王子様に語りかける三上真史さんのキツネや薔薇のことばに、違う意味を感じ取らせる。本来それが演じられた際には乗っていなかったはずの物語が、オンライン上で新しく演じられているに等しい。

その文脈の中でどのやりとりに心を惹かれるかはひとそれぞれだろう。私はキツネのもとを去ろうとするときのやりとりが一番好きだ。

別れぎわ、仲良くなったがゆえに王子様とキツネはさびしがる。泣きじゃくるキツネに「なんだよ、なかよくなってもなんも良いことなんてなかったじゃないか」と王子様は言うが、キツネは「いいことはあったっす、いろいろと」とちいさく笑い、薔薇の庭に行くことを勧める。「(星に残してきた王子様の薔薇が)世界にひとつだってことがわかるっすよ」。薔薇の庭に行った王子様には、以前と変わらない薔薇たちがまったく違うように見えている。それらは王子様にとっての「薔薇」、たったひとつの特別な「薔薇」ではないのだった。

「もちろん、おれの薔薇だって通りすがった人から見ればおまえらと変わらないだろう。でもおれにとってあの薔薇はおまえら全部よりも大事な存在なんだ!だっておれが水をあげたんだ、おれがガラスのカバーに入れてあげたんだ、おれが!風除けで!守ってあげたんだ!あいつはおれの、おれだけの、大事な大事な薔薇なんだ!」

そう叫ぶ王子様の言葉は、キツネが出会ったときに語った「仲良くなること」の効能そのものだ。「(仲良くなるまでは他の存在と変わらないけれど)仲良くなったらおたくにいてほしいと思うようになる。おたくはあたくしにとって世界に唯一の存在になるのです。仲良くなるのっていいっすよ」。王子様は薔薇と新たに言葉を交わしたわけではない。けれどキツネと「仲良くなる」ことを経験したために、薔薇への感情が再解釈されたのだった。わたしたち観客の知識が、この過去の映像に違う物語を付与するのと同じように。

何も知らない他者から見れば他のものと変わらなくても、愛したものは自分にとってかけがえのない特別な存在だと王子様は叫ぶ。ほかにどのような人がどのようにそれを見るのかは無関係で、見ている「私」の眼差しこそが愛によってそれを特別なものにする。それを見る主体がもつ経験が、知識が、感情が、愛が、特別なものとしてそれを捉える。似たようなものがたくさんあったとして、他者から見て代わりがきく何者かでしかないとして、でも自分が心を注いで愛したものはたったひとつ代わりがきかないのだ。愛されたもの、いまはもういないものが、「愛したものに代わりなどない」と叫ぶ舞台がオンラインに出現した瞬間だった。

 

「仲良くなったっていいことなかったじゃないか」「いいことはあったっす」というやりとりは、生きている限り死亡率100%のわたしたちが、それでも何かを愛する理由のシンプルな表現だ。

そして2020年のいま、その場面は人々に愛され、いまはもうどこにもいない死者が「仲良くなったっていいことなかったじゃないか」と愛に疑問を提示し、それに生者が「いいことはあった」と答えるものに変わっている。愛したがゆえに別れはつらく悲しく苦しい。それでも愛したことは間違いではなかった。いいことはあった。ずっと。舞台の上にいるのは役者と役者だが、その人を愛した者たちすべてがそう答える、此岸と彼岸の隔たりーー第三の「リモート」を飛び越えたやりとりのように映った。

ラストシーン、飛行士(木ノ本嶺浩さん)は王子様に教えられた通り、星を見るたびに彼を思い出すと語る。去ってしまったものを偲ぶ一連のセリフと、そのセリフを朗読している飛行士ではなくそのセリフの届かない場所へ帰ってしまった王子様が映されるカメラワークは、美しく物悲しい。

上演されているのは過去の作品の映像である。そこで演じられているものは一言一句変わらない。それでも再解釈により物語は新しく再演された。

 

ぼくとしょリモート4本目は新作である。過去に二度、滝口さんによって上演された演目である「智恵子抄」が、ぼくとしょの先生たちによって演じられる。リモート収録されたこの新作は、キャストそれぞれの映像をつなぎ合わせた作品だ。共演者でありながら、かれらはひとりとして同じ空間には立っていない。

そして新作はe+の告知とは異なる真タイトル、「ユキヒロの『智恵子抄』」を掲出する。出演者にも「滝口幸広」の名前がある。過去公演での「智恵子抄」の映像、「レモン哀歌」を朗読しているシーンが使われており、オールキャストの「レモン哀歌」朗読に参加する。

生者たちのひとりとして同じ空間に立ってはいないのなら、(そして収録が全員同時に行われたと言うことはないだろうから)ひとりとして同じ時間を共有しているわけではないのなら、過去に劇場で収録された「たっきー先生」の映像は、ほかのキャストのそれと何も変わらない。

この記事の最初に、わたしは「役者の身体がそこになく、リアルタイムでさえない映像なのであれば、それは既存の映像作品とどのように差別化されるのか?それを演劇と呼ぶべきなのか?リモートドラマとリモート演劇はどのように違うのか?」と書いた。わたし個人ではなく、おそらくリモート演劇というものに触れたひとすべてが持ったであろうその問いに、る・ひまわりは「役者の体がそこになく」「リアルタイムでさえない」からこそ、いまはもうそこにいないひととも舞台を作り出すことができるのだ、というこの上ない答えを出した。

この手法は、もともとが映像であるドラマでは作用しにくい。リアルタイム性や役者の身体を作品の成立要件として求めないからだ。死者の映像を用いたところで、それは死者の「出演」ではなく、「生きていた頃の映像」であると映るのではないか。

 

ぼくとしょリモートは、死者である滝口さんが生者であるほかのキャストたち全員と同じ板の上に立っているのを見せた。たっきー先生はほかの先生たちと同様、授業に「リモート参加」していた。

もうどこにもいない人が、すべてが映像で作り出される舞台という状況下において、そこに現れた。存在しないものをそこに生かす、舞台の魔法がかかったのを確かに見た。

なんという美しい作品だろうかと思った。

 

しかし、これは危うい魔法である。死者を起用するコンテンツは、扱いを誤れば感動ポルノに堕する危険がある。商業主義のもと、他者を踏みにじってでも金を儲けられればそれでよいという考えの人間が本作の見せた魔法を模倣すれば、それはおぞましい地獄を作り出してしまうだろう。いや、細心の注意を払って作ったとしても、観る人やのこされた人にとってはじゅうぶん暴力になり得る。だからこの手法を全面的に肯定することは断じてできない。*2

しかし、ぼくとしょリモートに限って述べるならば、これは死者の皮を掲げてひとの心をずたずたにし強制的に涙を搾り取るような冒瀆ではなく、もういちど愛したひとと芝居をやりたいという真摯な祈りの果てにあるものだと思った。

智恵子抄の授業中、「制作するものは、あるいは万人のためのものになることもあろう。けれども制作するものの心は、たったひとりに見てもらいたいことでいっぱいなのが常である」という部分を村井先生が朗読する。これがぼくとしょリモートの核ではないかと思った。ぼくとしょリモートは有料配信されたコンテンツである。だからこれは観客のために作られたものであるし、「万人のためになることもあろう」。けれども、この作品を見せたい相手は「たったひとり」なのではないか。その「たったひとり」へ向けられる愛があるかぎり、ぼくとしょリモートは倫理の薄氷を踏み抜くことはないと思う。

 

新作である「ユキヒロの『智恵子抄』」が終わった後、各先生たちから「海外出張中」のたっきー先生にあてたメッセージが流れる。「海外出張」が何であるかを知っている観客は、「大丈夫」だと笑うひと、「さびしい」と言うひと、「次に会ったら」といつかの日を語るひとの言葉ひとつひとつに、この舞台を作り上げた祈りを見る。「いまはもういない彼を愛したものたち」という文脈を観客と共有したいという、制作側の祈りを見る。*3

 

「いつかまたいっしょに芝居がしたい」という先生たちのメッセージは、板の上で生きている人たちの最大級の愛であろう。そして望むようには叶わない祈りである。

だからいち舞台ファンがこう言い切るのはあまりにも粗暴で野卑なことだけれど、それでも書いておきたい。

リモート授業に「たっきー先生」がいたのを私は見た。リモート演劇がこのうえなく演劇であった歴史的な作品にいたのを見た。時間と空間を飛び超え、彼岸と此岸の遠きを超え、生と死の理を覆して、2020年の舞台に出演していたのを、確かに見た。

 

この記事をどう締めていいかわからないので、もともと好きな詩集である智恵子抄を引用して終わろうと思う。一番好きな詩の、一番好きなところだ。もういなくなってしまったひと、これからいなくなってしまうひとのことを考えるとき、私はいつもこの四行をくちずさむ。

あなたはまだゐる其処にゐる

あなたは万物となつて私に満ちる

 

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど

あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

智恵子抄「亡き人に」より)

*1:さまざまな死についてが描かれた展示であったので、さまざまな死に思いを馳せた文章を書いた。この引用は「心臓音のアーカイブ」についての感想からすこしはみだした部分である

*2:仮に本作がオンタイムで複数回公演されるものであったなら、私は舞台のオタクのはしくれとして許容できない。まだ半年しか経っていない。死者を語るにはあまりにも近すぎる。個人が自由意志に拠って語ることと、仕事として語ることとは違う。

*3:6/8追記:ぼくとしょリモートの感想の中で、る・ひまわりとキャストとファンとが築いてきた信頼関係について語る方をたくさん拝見した。滝口さんが愛されていたことがファンからみて明らかだったからこそ、この作品を純粋に愛として受け止められると。

だから最終行は「文脈を観客と共有できるはずだ、という制作側の信頼」と書くべきだろう。送り出した愛のすべてを手を伸ばし受け取ろうとしてくれる存在である、と制作側が客席を信じて身を任せるように作られた作品であるのだろう。そんなにも観客に信頼される制作と、制作に信頼される観客との関係があることはなんと美しいのだろうか。

る・ひまわり作品の履修が甘い私の視界からこれを語ることは不誠実である。だから迷ったけれど、語られたたくさんの愛についてどうしてもこの記事に残したく、追記した

簡易な感想群、疫病のある日常

ぼんやりとデスミュの感想を書いたり消したりして過ごしている。

めちゃくちゃによかった。よすぎてキャパシティをオーバーしている。観た初回、あまりに良い舞台だったので興奮しすぎて上の空になり帰りの階段を2段ほど踏み外して落ちた。あまりにも漫画のようだったので自分で自分にウケたが、一緒にいた友人には引かれた。引きながら怪我を心配してくれた。

この友人は前にわたしがiPhoneを落として割った際、あまりにも見事な割れ方だったのがツボってゲラゲラ笑いながら「記念撮影して!!」と頼んだ時も引いていた。引きながらも記念撮影はしてくれた。いいやつなのだ。

 

デスミュの感想を書いていると、夜神月は殺人者なので肯定してはならないがいやでもだって夜神月くんはめちゃくちゃに心優しい普通の青年だったのにどうしてあんな死に方をしなくてはならなかったんだ…と自分の中で争いがある。もともとは「死んだのはつらいが自業自得ではある…」くらいのラインを取っていたのだが、東京公演村井楽のカテコがあまりにも物凄かったのでそれまで書いていた感想はぜんぶゴミ箱に捨てた。

演者からの挨拶はなく、ただカテコで出てくるたびにL役・高橋颯さんとハグしたり、袖で振り向いてお互いに礼をし合ったり、夜神総一郎役・今井清隆さんと高橋颯さんに挟まれて手を繋いでいたり、アンサンブルの方々に拍手と笑顔を向けられながら去って行ったりしていた(なんとなくだが、たぶん演者側の想定より1〜2回くらい多めに出てきてくださったのではないか)。そこには愛があって、笑顔に満ちていて、世界は輝いていた。

自分は元からわりと舞台上のキャラクターに心を寄せるタイプの見方をしていると思っていたのだけれど、それを見て、「ああ、ライトくんが辿り着きたかったのはここだったんだな(そしてそうはならなかったのだ)」と思い、そこではじめて自分の中で夜神月というキャラクターからライトくんというひとりの青年になったような感覚があった。「あの最期は悲しいが仕方ない」から「あの最期は仕方ないが悲しい」に感情の順序がかわり、一気にしんどさが膨れあがった。

 

という視点を得たあとで地方公演を観るのをとても楽しみにしていたのだが、結局のところ東京村井楽がわたしの観た最後のデスミュになり、仕方ないこととはいえたいへん残念だ。それに甲斐ライト回を地方で取っていたので観ずに終わってしまったのも痛手だ。比較がしたかったな…。なんとなく原作ライトに近いのは甲斐さんの方なのかなという雰囲気を感じていたので、舞台の独自路線が強いように思った村井さんの演技と比較して、「現代劇としてのデスミュ」に関する考えをもう少し深めたかった…。

地方公演を観てから詰めて感想を足そうと呑気に考えていた部分を足らないメモと不完全な記憶をもとに足すことになるが、できるかぎり自分の納得がいくように書こう。

 

デスミュパンフの通販時、村井さんの未入手分と一緒に高橋さん単品のものも買ってしまった。高橋さんの演技がとてもよかった…課金したい…という気持ちのやり場がそこしかなかった。とてもよいお写真であるが推し以外のブロマイドをどこにどう保管しようかという悩みもできた。村井さんのデスミュ写真の近くでいいか。

石田衣良の昔の短編で「大人になってよかったことのひとつはこうして応援の気持ちをお金で示せることだ」みたいな一節があり(本好きの主人公が本を買うシーンだった)、なにかにポジティブな気持ちで金を払うときよく思い出す。

若い頃よく読んだが最近あまり読まなくなってしまった作家の作品に、今でもこういうふうに思い出すフレーズがあると、あのころに読んでいてよかったなと思う。今読んでこういうふうに心のどこかに残るかはわからない。適切な時期に適切な本を読んだのだろう。まあ忘れっぽいので読んだことも覚えてない本のほうがたくさんあるんだろうな(覚えていないので例示はできないが)とも思う。

 

世の中がたいへんなことになっていて、日々明るいニュースがないまま暮らしていると気が滅入る。報道を見ねばならないが見るとストレスになる。戦力の逐次投入がよい結果をもたらしたいくさが果たして歴史にどれだけあるだろうかと思う。

遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

(ともに土岐善麿

どちらも終戦を詠んだ歌だがこの頃よく心に浮かぶ。「遺棄死体〜」は好きな歌でなにかあるごとに思い出すのだが、この頃は「あなたは勝つものと〜」のほうがなんとはなしに浮かぶ。いままでは、これは戦意高揚のために芸術を用いた人間の自省を妻の言葉というかたちでこめた歌だと思っていた(作者の意図や文学史のなかの立ち位置からそう遠くはない取り方だろうとも思う)。

しかしいまの世界情勢のなかでこの歌を見るとき、渦中にある者たちの心は「勝つものとおもつてゐた」か否かの二択ではないのではという気がしてくる。勝つことも、それどころかこの日々が終わることも信じきれず、しかし勝つものと思っていなくては生きてゆく気力を失くしてしまうから、勝つことだけを言葉にし人事を尽くす。そういった連帯によって生き残ったものたちが、心を挫かないようにと胸に秘めていた本当のところをようやく口に出せるようになった安堵と言い知れぬ疲弊を感じる。

疫病によって終戦の歌をこんなふうに身にしみる気持ちで口ずさむ日が来るとは人生わからないものである。いつ終わるかわからない世界レベルの非常事態におけるじわじわとしたつらさを肌身で感じる良い機会であると思うことにする。事態の終息前に自然災害の起きぬことを祈るばかりである。

 

世界が疲弊していて、懸命に戦う人たちの連帯を尊く思うと同時に、あのキラ・コーラスが聞こえるようで恐ろしく感じる。あまりに民意を汲んだ法案をぶちあげている政党を見て、平時は「絵に描いた餅で人気取りにいっとるな、どうやって実現するのだそれを」と思うところだが、「実現させられるならなんとかやってくれ」と思ってしまった。

いまカリスマ性があり迅速で果断な(おそらくは見目の麗しい)人間が華やかに登場したら、それは歴史から見てどう考えても危険なのだが、その魅力に抗い切れるだろうかと思う。デスミュ2020を観ていながらわたしはキラ・コーラスに加わる一人になるのかも知れないと思うと恐ろしさがある。

 

チケットをいくつか払い戻した。デスミュの大阪福岡とアナスタシア東京。RENT来日公演はまだアナウンスがない。振替公演の案内と同時に出したかったのだろうがこの状況では振替公演も調整しがたいだろう。高校の後輩(小劇団の役者)が「入ってた仕事がどんどん飛ぶ」と言っていてつらい。別の後輩の夫も確か舞台系の仕事だったと思うので心配である。

秋口の日本版RENTも楽しみにしているが、ユナクさんがCOVID-19罹患との報でつらい。わぁ平間マーク!上口エンジェル!加藤コリンズと光永コリンズがWだとヒャッホー!!とキャスト発表見てわくわくしていたのでぜひあのキャストで幕が上がってほしい。

ほんと全員快癒してほしい。全員つったら全員だよ全世界だよ。

 

テレワーク不可能な作業がある仕事なので仕方なしに出社している。

電車が空いていたのが4/1だけ急に混み、4/2からはまた空いた。3/31までの自宅待機指示が解けたり入社式に出たりする人がいたのだろう。おもしろい。おもしろがっている場合ではないがおもしろがるくらいしか元気の出しようがない。

 

リディア・ディヴィス「ほとんど記憶のない女」を読んだ。気候のせいで頭痛がして集中力が保たないので短編集を読もうと思ってのチョイスだったが、頭痛がするときに読むものとしてこんなに適切じゃない選択があるか。

短編というよりは他人の夢を見ているような、それでいて自分の記憶とどこか符合する、掴みどころのない作品が51篇収められている。

文章は装飾的でなく、むしろなにかの説明書のように簡明だ。

近所に毎朝のように真っ青な顔でコートをなびかせ家から飛び出してくる女がいる。女は叫ぶ、「助けて! 助けて!」すると誰かが走っていって彼女の恐怖がおさまるまでしっかりと抱きとめてやる。私たちはみな女の言うことが作り話で、本当は何も起こっていないことを知っている。それでも私たちは彼女を許す。(P143「恐怖」)

失われたいろいろなものたち、でも本当に失くなったのではなく、世界のどこかに今もある。(中略)それらは私からも私のいる場所からも失われてしまったけれど、消えてしまったわけではない。(P158「失われたものたち」)

ほとんどの作品が引用箇所のように、要約して人に話すことができないほど簡潔な文章で、具体的な存在を示しながら、その中心に掴みどころのない概念や感覚を据えている。どんなにうまく要約したところで、要約した途端に抜け落ちてしまう何かが含まれていて、良さを感じるには読むしかない本だと思う。

一番好きなのが「混乱の実例」という作品で、ほとんどは10行以内の短い文章が15個並べられたものだ。ひとつとしてその通りの状態を経験したことはないが、すべてが自分のかつて抱いた感覚として脳から直接引きずり出されて言葉になっているようで、こういうものを読むと興奮する。

私はニンジンをかじりながら詩人の書いた文章を読む。すると、たしかにその一行を読んだはずなのに、(略)どうしても"読んだ"という感じがしない。それは"理解した"感じがしないというか、むしろ"食べた"感じがしない、というのに近い。先にニンジンをかじっていたので、もうその行は食べられなかったのだ。ニンジンも一行の詩だった。(P190-191「混乱の実例」7)

一番好きなのがこの7で、ああ!ある!あるな!この感覚ある!!と興奮したし、それを「ニンジンも一行の詩だった」と言うのが簡潔でクールだ。最高。

 

大学生のとき、文学の授業で「この○○はなにを意味するか」という問いを学生同士でディスカッションし、しかし答えは「これはべつに○○じゃなくていいんですよ、任意のなにを入れようが問題ではなくて、ここに『ある』ことがその意味なんです」というもので、頭の悪い学生だったため当時は全然意味がわからなかった。卒業後だんだん頭の出来がマシになり(学生のうちにマシになりたかった)、今ならわかる。この文章で食べているのがニンジンであることにも、読んでいるものが詩であることにも意味はない。当時わかればもっとよかったろうが、いまわかるようになっているので、まあいいかと思う。

 

要約が意味を成さないタイプの話が好きで(だから不条理小説が好きなのかもしれない)、それは作品のあらすじを知ることとその作品を読むこととはまったく関係ない別個のものだということを突きつけられるからだ。ファンタージェンで育ったので、作品を読み物語を経験することでしかそのものを知ることはできないと思っている(これは感情移入の話ではなく、読みながら自分がその作品をどう感じ、どう受け取り、どう解釈し、どう考え、どう血肉とするか、という話だ)。あらすじを長大な作品を読むときのマイルストーンとしたり、not for meな作品であるかどうかを事前に判断したりするのに使うのはいいが、知った気になるのは勿体ないことだ。あらすじからは作品のことを知ることはできても物語を知ることはできない。

 

好きなものの話をするとすこし気分がよくなる。好きなものの話をまたしようと思う。

ゲシュタルト崩壊(顔)、曖昧なイメージ、微妙に文庫サイズではない、本選びに悩む

ひさしぶりに人の顔がわからなくなった。

といってもいわゆる相貌失認というほど深刻なものではなく、単にしばらく人の顔を見ているとゲシュタルト崩壊を起こすだけの話である。暮らしに支障はないが、たまに会話している相手の顔がわからなくなるのは、会話に対する集中が削がれるので困る。

わからないといってもべつに相手が誰だかわからなくなるのではなく、「……こんな顔だったっけ?」という疑問とともに、動きや声がなにかを構成するひとかたまりとして捉えられなくなり、個々の要素にばらけるだけだ。顔はわからなくとも、会話は音と意味のやりとりなので特に問題なく処理される。支障はないがなんでこのタイミングでわかんなくなるんだろうなという不思議さはある。

顔がわからなくなっているあいだ、目の前にいるのが生き物で、脳でいろいろなことを考え、さまざまな筋肉を動かし、息を吸ったり吐いたりして言語としてそれを出力していることがふしぎなことに思われる。でもけっこうおもしろいからいまのままで構わない。常時この状態だとふしぎさが失われそうなので発生頻度もいまのままだといいのだが。どうだろうな、脳のバグっぽいからな。いつかそれぞれの名前と物体との関連性の鎖がゆるくなってしまって、個々にばらけた要素で満ちた世界をふしぎがりながら眺める日が来るのかもな。

 

日記に書くことがあまりない。「日記をつければ書き留めるためにいろいろなものを意識に入れながら暮らすだろう」という思惑を見事に裏切り書くことがない。それで毎日なにをしているかというと、まあ、ポケモン剣盾ですね。毎日きのみを収穫してまわり、りんごやハーブを拾い、カレーを作っている。なんのゲームだこれ?(とても楽しい)

男の子主人公が見事にどこぞのリゾートでバーテンやってそうなビジュアルにカスタム可能なので、着せ替え機能がついてから初めて男主人公にしたが、やはりというかなんというか男子の着せ替えは虐げられているな。男子にもそのニットカーディガンともこもこコートを着させてくれ。ゆめかわパーカーがOKでニットカーデがNGな理由がわからん。

 

舞台「Indigo Tomato」(2019、東京グローブ座)を観た。今年観たのが11作品だったので、キリよくもうひとつなんか観るか、評判いいし、というノリでしゅっと取った。自閉症サヴァン症候群共感覚をもつ青年タカシをはじめ、さまざまな事情(障碍/孤児/国籍)から世間に馴染めない人々が、それでも世界に参加することを選ぶ物語である。よい作品だったなと思うのだけど、どうもなにか見落としてしまったような気がしていて、ずっと考え込んでいる。いやしかし5人全員歌がうまくて演技がうまくて2時間ずっとめちゃくちゃよかったな…。

 

グローブ座に行くのが初めてだったので、14時開演だが12時くらいに大久保に着き、早めに場所を確認して、街をうろうろした。来たことない街だからなにか食べようと思ったのだけれど、覗いたところがだいたい韓国グルメ(辛いのがだめ)と東南アジアグルメ(香草がだいたいだめ)で、それ以外の店でよさそうなところは量が多そうだった(少食)。めんどくせえ舌と胃である。結局はなにも食べずに観劇した。

帰りはまだ日が高かったので新宿まで歩いた。しばらく歩くと顔のいい男女のポスターがところせましと貼ってあったので「なるほどこれが新大久保のプチ異国情緒、つまりこれは韓国アイドルさんたちなのだろうなあ、顔がいいですな」と思って眺めながら歩いていたのだが、それにしては、こう、なんというか、中高生がグッズ買いにくるにはどことなくあやしげな雰囲気の街だな…と思っていたらそこは歌舞伎町で貼ってあるのはお水のメンズ&レディースのポスターだった。韓国アイドル同様触れたことのない文化圏であることには変わりなかったので興味深くポスターを見ながら歩いた。けっこうパロネタのポスターが多いものなのだな。「抱かれたい男No.1にオラされています」というようなやつがあって、最初「へー、実写化すんだー」と思いながら通り過ぎたのだけど、あとでアレもお店のポスターか!と気がついた。オラされて、というのは、たぶん「オラオラ接客」とかそういう言葉の省略形なんだろうが、なんか偉そうにグイグイくんのかな、程度にふわっとしかイメージできない。スタープラチナみたいな感じに接客されるわけではないことだけかろうじてわかる。

 

新宿のブックファーストでデスミュのブックカバーとしおりを配布しているというので、そうか、いや本を増やすのはよくないんですけど、読み終わってない本が多いので本当は買ってはいけないんですけど、でもなくなり次第終了と言われたらなあ!推しがなあ!写っているのでなあ!!と言い訳しながらにやにやと本を買……おうとしたらなんと欲しい本がのきなみ文庫サイズではないのである。なんということだ。

あれは新書サイズ、これも新書サイズ、それはそもそも単行本、となって困ったのでそうだハヤカワSF買っちゃえ!と思ったらそういやアレも微妙にでかいのだ。なんなんですかほんとに!!

へちょへちょしながら自分用には好きな作家の未読の文庫とどうしても欲しかったのでカバーがかからないのを承知で白水Uブックスを1冊選び、キャンペーン参加書店のないところに住む友人のために本を選んだ。本もあげようと思ったので持っていなさそうなやつ、それでおもしろくて、でも私の趣味で選ぶとあんまり好きじゃなさそうだから…寝る前にパラパラ読んで気持ちが暗くならないような軽めのを…と悩み、江國香織「ホテル カクタス」や川上弘美「椰子・椰子」を探したが無く、ケン・リュウ「紙の動物園」は評判いいし好きそうだなと思ったが自分が未読なので万が一思ってるのと違ったら困るのでやめて、自分の趣味で選んでしまおうかな……とカズオ・イシグロやら安部公房やらの棚をうろうろして思いとどまった。最終的にはいい本が選べたのでよかった(カバーも無事かけてもらえた)が、帰宅してふと本棚を見、岸本佐知子編訳「変愛小説集」(講談社文庫)があったじゃないか…!?と気がつかされちょっとだけ落ちこんだ。

翻訳にうといので普段は作家で本を選ぶが、岸本佐知子訳のものだけは「作家のことを知らなくても買ってよい」と決めている。翻訳者というより(もちろん翻訳も良いのだが)この人が選んだ作品なら間違いなくおもしろい、という一種の指標のように思っている。

で、久しぶりに読み返したら「贈るのこれじゃなくて良かったな…」と思った。おもしろいけど。おもしろいけど贈る相手は選ぶ本だな。このなかだと私は「僕らが天王星につく頃」という、体からじょじょに宇宙服が生えてきて、宇宙服が完成したあとは天王星まで飛んでいってしまう奇病の流行っている世界の夫婦の話が好きだ。以前人に説明したら何を言ってるんだという顔をされたが、だってそういう話があるんだ。そういう感じの話しか収録されてないアンソロジーもあるんだ。そういう感じの話をよく翻訳してる翻訳者もいるんだ。

 

最近会社で良くねむくなるな、なぜだ…と困っていたのだけれど、ふと気がついてセーターを脱いだら涼しくなり眠気も去った。

先日まで会社はとても寒かったのだが、みんな平等に寒くなったらしく暖房がつくようになった。しかしそれに気がつかず今まで通り防寒していたのでとてもぬくぬくあたたかく、あがった室温の分だけしっかり眠くなったらしい。夏と冬で体温が2度近く異なる変温動物なので外気温にすぐ影響される。

野生を感じる。

確信犯による無差別殺人は「個」と「全」どちらの罪なのか(舞台「あの出来事」感想)

舞台「あの出来事」(2019、新国立小劇場)を観に行った。2011年にノルウェーウトヤ島で起きた極右青年による銃乱射事件を題材にとる作品だが、作品は舞台やシチュエーションを移し完全なフィクションになっている。

以下は実際の事件ではなく、舞台作品の内容およびそれに対する感想を記述する。

 

青年は愛国心から、移民やマイノリティ、社会的弱者が集まる合唱団を「国を乗っとるものたち」として敵視し、無差別に殺害する。多文化主義の実践として合唱団の指導者を務める女性牧師はその惨禍を生き延びたのち、「肉体から離れてしまった気がする」と語る自らの魂を回復させるため、青年について、事件について、理解するためにさまざまな関係者に話を聞き、最終的には収監された青年に会いにゆく物語だ。特徴的なのが、女性牧師・クレア以外のほぼ全てを犯人の青年を演じる役者が衣装を変えずに演じ分ける二人芝居に近いものだということだろう(なぜ「ほぼ全て」「近いもの」なのかというと、舞台上には彼ら以外に合唱団がいるのだ。これについては後述する)。「クレアにとって事件は終わっておらず、だからあらゆる関係者の顔が犯人の青年に見える」という意図のもとの演出であるそうだ。青年役・小久保寿人さんはインタビューにて「誰もが青年になりうることの表現でもあると思う」と語っており、私はそちらのほうがよりしっくりきた。この作品の「青年」は、自らを「正しい」人間だと思っており、銃乱射も「良かれと思って」やっている。そう聞いて思い出せる事件は大量殺人に限っても悲しいくらいにたくさんある。ましてや数人を殺傷する程度のものであれば記憶することさえ難しい。時折ドキュメンタリーや裁判の経過を見て、ああそんなひどい事件があった、と思い出す程度で、すぐに新しい悲劇が上書きされてゆく。

殺人や傷害ではなくとも、「正しい」と思い「良かれと思って」他人を傷つけることは、確認するのもバカらしいくらい世の中にありふれている。悪意によってのみ人は攻撃的になるのではなく、むしろ善意に基づいた行動を起こすときこそ自己反省を欠き危うくなる。誰もが「青年」になりうる。

 

この戯曲には「クレア以外の役を青年役が演じること」以外にもうひとつ特徴的な指示がある。「上演する土地の合唱団を舞台上にあげること」だ。合唱団はクレアの指導にかかる「合唱団」役として歌うだけではなく、いくつかの場面では台詞を言い、芝居に参加する。たとえば事件を起こした青年へのインタビュアーとして、たとえばクレアと同じ悲劇のサバイバーとして。「ギリシア悲劇のコロス形式を用い、合唱団(=演技の素人)を舞台に上げることで、観客たちをそこに立たせる」効果のためと解説されていたが、コロス形式の効果については正直なところ私にはわからなかった。複数人が口々に問を投げかけるインタビュアー役には良さを感じたが、サバイバーである合唱団員がクレアに別れを告げる場面は他と同様に青年役の役者によって演じられた方がいいのではないのか…と思った。演技の良し悪しではなく、「同じ悲劇に直面したサバイバーでさえ犯人の青年=加害者に見える」ほうがクレアの身の置きどころのない孤独さに即しているのではないのだろうかと思った。しかしこれは「青年に見えない=被害者という自分と同じ立場(という表現で良いかは不明だが)であるはずの合唱団員にさえその回復手段を拒絶される」ことの表現であろうから、こちらの方が作品の示すところとしてはより良いものなのだろう。

 

クレアが魂を回復しようと歩む道は決して美しいものではない。犯人の父親、犯人が傾倒していた本の作者(ジャーナリスト)、カウンセラー、牧師、恋人(クレアは同性愛者のため、パートナーは女性であり、これも青年が演じる)などさまざまな人との会話の中で、クレアは嵐のように不安定であり、そして彼女もまた人を傷つける。実際、作者であるデイヴィッド・グレッグは「知りたいという欲求は、ある意味破壊的である」というテーマをこめてこの戯曲を書いたという。

 

 

以下は作品の内容に触れる。ラストで何かがひっくり返るような作品ではなく、おおよそあらすじ通りの物語だが、それはそれとしてネタバレである。なお1回しか観ていない上に戯曲を入手できていないので(物販になかったような…)、けっこううろ覚えである。

いちおう断りを入れておくが、本稿は私の主観によるいち解釈であり、「私個人が劇場で観たもの」についての記録のようなものである。

 

 

まずは作品を「被害者」と「加害者」という視点から見ていきたい。

主人公であるクレアはテロ事件の被害者である。しかし、作中の彼女は決してかよわき無辜のものではなく、むしろ加害者的な面のほうが目立っている。

たとえば、彼女は身勝手な理由で事件とはなんの関係もないスーパーでチョコレートバーを万引きし、セラピストにふてくされた態度を取る(凄惨な事件によるPTSDを抱えているためか、警察ではなくセラピストが対応し、優しく辛抱強く「どうしてそんなことをしたのか」と問いかけ諭す。しかしその最中にもクレアは事件について勝手に語り出す)。

また、見知らぬ他人だけではなくもっとも親しい存在であるパートナーをも彼女は傷つける。事件を追い続け消耗するクレアを愛し支えるパートナーへの感謝は見られない。それどころか、魂を失いもがいているクレアの苦しみに寄り添おうとした彼女は拒絶され、どこまでも一方的に要求をつきつけられる。限界に達したパートナーとクレアは取っ組み合いの喧嘩に発展する。正確には出ていこうとするパートナーをクレアが一方的に突き飛ばし、押し倒し、強引にくちづけてうやむやにしようとする。この場面は「女性の役者(クレア)が男性の役者(パートナー)に対して暴力を振るっている」からこそ、却ってその行為がいかに倫理を欠いた加害的な振る舞いであるかが純粋に提示されるように感じる。男女が逆、あるいは双方が女性であったなら、その見た目によってどうしても別の意味合いが乗ってしまう気がする。決して華奢ではない男性が、吹き荒ぶ嵐の如き暴力にあらん限りの力で抵抗し、ねじ伏せられてしまう女性を演じるからこそ、クレアの持つ加害性と狂気じみた面が際立っていた。 

 

クレアは自らの魂を取り戻すための探求のなかで他者に加害するが、それは直接的な犯罪(万引き)や暴力に限らない。「話をきく」「歌をうたう」のような一見平和的なものもある。

犯人の父親は、話を聞きにきたクレアに対し「あんたはいいよな、『被害者』だ。みんな親切にしてくれる。俺に対して世間はひどいもんさ」と語る。子が幼いうちに離婚し、青年が15歳のときに母が亡くなってからも「一度も家に行ったことがない」という父親の言葉は、被害者に対してひどく身勝手ではある。しかしその一方で、その人生にほとんど関わっていない息子の突然起こした凶行について、彼はクレアのように他人に聞き回って知ることもできない。彼はその凶行について、なぜ起きたのか知っていなくてはならない立場……「父親」だからだ。回復の道を閉ざされている彼に、質問を重ねるクレアの姿は一種暴力的である。

またクレアは事件後、生き残った合唱団を再び指導し始めるが、それは以前のように明るいポップスや唱歌ではなく、アボリジニやシャーマンの祈祷を取り入れた儀式めいたものになっている。大地とつながり、命を回復させるそれらの儀式を、クレアは「良かれと思って」みなに指導するが、合唱団は「みんなのためにやってくれているのはわかるけれど、私たちはこういう暗いことばかりやるのはつらい。明るいポップスなんかを歌いたくて合唱団に入ったのだから。事件のことばかり考えたくないの。もうみんな合唱団をやめるつもりです。今まで指導してくれてありがとう」とクレアの元を去ってゆく。クレアの魂を回復させようと模索する行動は、同じ事件のサバイバーに寄り添うどころか逆に傷つけるものである。

クレアの探求が加害的であるともっとも端的に示されるのは、先にも触れたパートナーと諍うシーンだろう。刑務所の近くへ引っ越そうとし、パートナーにも「(どこでもできる仕事なのだから)一緒に来て、いいでしょう?」と、それを叶えてもらうことが当然の権利であるかのように要求する。事件に囚われ続けるクレアを辛抱強く支えてきたパートナーはここで限界に達し、出て行こうとする。クレアはそれを妨害し、「だめよ、キスして」などと強引な仲直りを(形だけであっても)求め、突き飛ばしさえする。出ていかせて、と繰り返すパートナーに、クレアは「私は被害者なの!これ以上傷つけないで!」と叫ぶ。

「私は被害者なの」。クレアのこの鈍器のような言葉は作品の核となるものだと私は思う。

クレアは凄惨な事件の被害者である。そしてその被害者としての立場は複雑である。

事件は合唱団の練習中に起きた。突然入ってきた青年を、クレアも合唱団もふらっと見学にやってきた新規入団希望者だと思い、明るく迎える。しかし青年は「この島の者は去れ」と言いながら銃を取り出し、混乱する合唱団の中から一人を選んで撃つ。惨劇が始まる。

クレアは責任者として合唱団を守らなくてはならなかったにも関わらず、パニックの中適切な判断を下せなかった。最初に一人撃たれてからようやく、しかし何の意味もない「みんな逃げて」という指示を出すことしかできなかった。そして音楽室に逃げ込みドアを閉めるが、彼女はそこでまた迷う。「外に出なくてはいけない。外で逃げ惑っているみんなをここに避難させなくては…」銃を持った青年がうろついている部屋の外へ踏み出そうとしたとき、同じ部屋に先に逃げ込んでいた合唱団員(名前が「シンさん」なのでおそらくは中華系の移民で、つまり青年の殺戮のターゲットだ)が震えているのを目にし、彼女の勇気はくじける。団員を抱きしめ、「一緒にいましょう、ここで隠れていましょう」と寄り添う。やがて青年が音楽室に入ってきて、隠れている二人を見つけ、銃を突きつけながら「弾は一発、おまえたちは二人。どっちを撃って欲しい?」という残酷な二択を発する。どうなったかについては、この物語の主人公がクレアであることからわかるだろう。

 

事件の中、クレアは幾度も迷い、判断を遅らせ、あるいは誤った。しかし彼女は軍事訓練を受けたわけでも、いつ無差別殺人に巻き込まれるか分からない戦闘地域やスラム街に暮らしていたわけでもない。日常が突然壊れたとき、「瞬時に」「正しく」判断し行動できる人間が一体どれだけいるだろうか。私は誤らないだろうか?否だ、おそらくクレアよりも悪い判断しかできないだろう。

それでも、悲劇に遭遇したひとは、「もしも」を心から追い出すことはできない。もしも最初に考えた通り音楽室に全員を避難させていたら?まとめて殺されていただけかもしれないが、合唱団員たちを「救おうとした」という行動はクレアの心を、そして(作中には出てこないが)遺族の心をいくらか慰めたかもしれない。できるだけのことはやったのだと自分を納得させられたかもしれない。

実際には、クレアは団員ひとりと音楽室に隠れ、他の場所に逃げた団員たちを見殺しにした。極限状況下において、目の前に震えている人間がいたとき、どんなに正しい行動であっても「放っていく」という選択はおそらく不可能だ。しかし、事実だけを見れば、クレアは誰も守れなかった。

彼女は何もしなかった。何も救えなかった。責任者なのに。

そう捉えたとき、被害者遺族にとってクレアの生存は理不尽であろう。自分の子を、親を、兄弟姉妹を、友人を、恋人を見捨てて生き残った女のように見えるだろう。理性では彼女が被害者であることをわかっていても、人間には感情がある。的外れであっても、人を憎む心はどうしようもない。

作中では描かれないが、クレアが事件に囚われつづけるのは、別の「被害者」たちの視線が、「自分は団員を見殺しにしたのではないか」という内在する疑問が、彼女に忘れることを許さないからではないだろうか。「私は被害者なの」と叫んだクレアは、自分が純粋な被害者ではないと無意識に感じているからこそ、そう言ったのではないか。ただの被害者であれば忘れることも許されよう。しかし加害者性がそこにある(と本人が思う)のなら、ただ時間に頼って忘れることは罪であり、魂の回復プロセスにもなりえない。事件を理解し、自分があの出来事において一体何者であるかを暴き、自らの負うべき罪とそうでないものを弁別しなくては、彼女は立ち上がれない。だから彼女はどんなに他人を傷つけても、事件を、青年を、自分を、あの出来事を知らなくてはならない。

 

「被害者」は、他人を無制限に傷つけることを許される免罪符ではない。そんなことはクレアもきっとわかっている。それでも彼女はその道しか進めない。彼女が魂を取り戻すことを諦めたとき、彼女は自分が罪人であるか否かの判断を放棄することになる。それは共に過ごし、唐突に失われた仲間たちの魂に背を向けることと同じだ。

 

 

「あの出来事」は、「ことぜん」(=個と全)をテーマにした上演3作品の2作目にあたる。そのテーマからも作品を捉えたい。この作品でまず注目すべきは「全」の希薄さ、言い換えるなら徹底した「個」の描かれ方ではないだろうか。

作品の中心となる銃乱射事件は、多文化主義に対するテロという「全」への攻撃、悲劇である。しかし、その描かれ方は「個」からの視点に徹底されている。「全」である社会への影響について、作品中では直接的には描かれない。現実世界では2019年現在でもまだ深刻な影響を残す事件を、社会がどのように受け止め、乗り越えようとしているかについて、作家は(おそらく故意に)描いていない。事件を追い続けるクレアを通して、サバイバー本人、関係者、それに関わる周囲の人たち、そして犯人の青年という、それぞれの「個」にとって「あの出来事」が一体何だったのかが描かれている。

 

個と全というフレーズを見て、先日見たクリスチャン・ボルタンスキー展の作品を思い出した。感想の該当箇所を引用する。

「保存室(カナダ)」はたくさんの古着が吊るされた作品だった。さまざまな服があり、そのさまざまな服はかつて着られていたが、その服たちはもう着られることはなく、いわば服の死体である。 服たちは新品ではなく古着であるから、それらを着ていたひとたちと着られていた服たちには人生があった。そしてそれらはもうどこにもない。 そういう不在が服の数だけそこにあった。 よく考えればあくまで古着というだけで、べつに死んだひとのものだという明示的な説明はなかったと思うのだけれど、そんなことを考えながら見た。

「ぼた山」もそれに似た作品で、黒い服がうず高く山のように積み上げられている。ただしカラフルで一枚一枚がくっきりと分かれていた「保存室」に対し、「ぼた山」は黒一色なので(ボタンなども真っ黒で沈んでいる)、近づいてよく見ないとただのひとかたまりの山に見える。同じ服の死体であっても、「ぼた山」は個ではなく死の集合体に見えた。直近まで読んでいた本の影響で、特定の事象によって発生した死体の山のように感じた。弔うこともできないまま堆く積み上げられた、個を失った悲劇の総体のように思った。

「ぼた山」を見たときの私は、大量殺人やテロ攻撃、事故、災害などにおける多数の死者を想起したのだった。死は、そして生は、間違いなく個人のものである。しかし数字として捉えたとき、その死は遠くから見る「ぼた山」のようにひとかたまりとして見える。個々の悲劇であることは、引きで見たとき、認識はしていても実感はし難い。そのかたまりとしての存在感のほうがどうしても勝ってしまう。

「あの出来事」は、「ぼた山」を一枚ずつの洋服に分けて並べていくような舞台だった。どんなに大きな全としての出来事も、そこには必ず個それぞれの出来事が集まっている、そういう現象の本質に対して誠実であろうとする作品だった。

 

話を舞台に戻そう。「被害者と加害者」の視点から見た際には、もう一人の主役、加害者である青年について触れなかった。被害者であるクレアが加害者性を持っていたのとちょうど反対に、彼はある意味において被害者性をもっているが、それは「個と全」の視点を踏まえたほうがまだ理解しやすいと思ったからだ。

青年はクレアと対面するシーンまでは怪物のように振る舞う。凶行後のインタビューには不遜な態度で臨み(このシーンで「童貞?」という質問に「ノー」と答えていることから、彼はいわゆるインセルではなくあくまでも愛国者であることが提示される)、事件のシーンでは興奮と平静の入り混じる口調で自分の犯行を俯瞰する。青年は「銃乱射事件を起こそうとしている人に言っておきたい、あなたは最中に絶対こう思うーーなんだこれは?馬鹿げてる!とね」と独白したのち、人々を殺戮していく。国と社会を損なうもの・侵略者としての移民たちに対して、愛国者である彼の攻撃は容赦なく行われる。犯人としての青年が見せる異様なエネルギーに満ちた振る舞いは、猛々しい虎を想起させる。

しかし終盤、面会にきたクレアと対面した青年は落ち着いていて適度に気さくな、どこにでもいそうな男だ(脱線するが、この場面、青年役・小久保寿人さんの力の抜き方がとてもうまい。さまざまな役を演じ分ける必要がある今作で、特に上手さが際立っていたのはこの面会時の青年と、セラピストなどいくつかの「穏やかな男性」役との演じ分けであったと思う。どの役も比較的落ち着いていて穏やかに話すのだが、セラピストたちにはクレアに対する緊張感がある。青年にはそれが見られない。おおげさに身振りや抑揚が変わるわけではないが、青年のなにげない挙措からそれが伝わる)。クレアがサバイバーだと知っていて、青年は攻撃的になるわけでも露悪的になるわけでも反省した態度をとるわけでもなく、共通の話題をもつ友人の友人、くらいの距離感でクレアに接する。「来てくれてありがとう。あなたと会うのはいいことだとセラピストが言っていました。自分がやったことについて理解する助けになると」と、なんの他意もない素直さで青年は礼を言う。面会室には青年とクレアしかいない。分厚いガラス越しに区切られた部屋ではなく、ひとつの室内に被害者と加害者が座っている。その状況下で、青年は「お茶、よかったらどうぞ。僕は淹れてはいけないことになっているので、飲みたかったら自分で」と親切に給湯スペースまで指し示す。目の前の女が復讐者であることなど一切想定していなさそうな軽やかさだ。

面会中、クレアは銃を突きつけて二択を迫ってきたことを覚えているかと聞き、青年は本当に不思議そうに「覚えてないな。そんなこと言ったんだ」と答える。ものすごく好きな会話だ。彼が殺したいほど憎いのは「移民」や「多文化主義」といった「全」なのであり、それを構成する「シンさん」や「クレア」といった「個」に対しての敵意はないのだ。だから「クレア」に対しても警戒心がないことにも頷ける。彼の中で、あくまでも加害したのは「全」であり、それは「クレア」という事件のサバイバーとはまったく無関係だ。

「個と全」という視点から青年を見たとき、彼は一貫して「全」しか見ていない男だし、事件はとっくに終わったものという認識なのだということが、このシーンで明かされる。あくまでも「個」の経験として事件を追い続けたクレアとは対照的だ。そして同時に、「個」が「全」を構成しているという視点が欠けている(または確信犯的*1に無視している)青年は、その「個」としては全く恨みのない人間を「全」の一部として殺害したことに対して反省や後悔などしようがないのだということが分かる。

 

ここで重要なのは、青年は決して他人の痛みや人の死を理解しないモンスターではない、ということだ。

愛国心がすべて危険で否定されるべきものだとも、多文化主義が無条件に良いものだとも思わない。しかし思想の左右を問わず、それを無辜の文民への加害を許す根拠にしてはならないと私は思う。おそらく青年もこれに同意するだろう。ただし、彼の認識において「無辜の文民」に移民は含まれない。国を愛し、単一民族による国家の同一性保持を望む極右思想の青年にとって、移民は敵であり、多文化主義は悪である。国を守るため、侵入してきた敵を殺しただけなのだから、自分は殺人者だが罪人ではない。敵は殺してもいい。だから反省することはない。自分がなにを為したかはきちんと知っている。そういう考え方だろう。その考え方が否定されない環境に青年はいたのだろう。それは一種の被害者だ。

「敵は殺してもいい」が過激すぎて首肯しかねるのであれば、こう言い換えよう。「悪は正義によって倒されるべきだ」。その種の考え方を一度もしたことのない人間はおそらくいない。そして「悪は正義によって倒されるべきだ」と考えるとき、ほとんどの場合、自分は「悪」の側にはいない。それはそうだろう。社会的にどう受け止められるかは別として、「間違っている」と思うものを信じることは難しい。

私が正しいと信じて疑わないことも、誰かにとってはあきらかに間違っている。絶対にだ*2。そう考えたとき、青年と私の違いはどこにあるのかわからなくなる。「誰もが青年になりうる」という言葉が重くのしかかる。

 

クライマックスでクレアは青年に茶を注いでやり、そのカップに毒を盛るが、何も知らない青年がそれを飲もうとしたとき、寸前でその手を払い除けて茶をこぼさせる。青年は驚き、不思議そうに「どうしてそんなことしたの?」ときくが、クレアは身を伏せたまま顔を上げず、何も答えない。彼女は青年という「個」ではなく、彼の所属する「全」こそが銃の引き金を引いた存在なのだと、彼との対面の中で理解してしまったのだろう。ここで青年という「個」を殺すことは、多文化主義という「全」への攻撃のために罪のない「個」を殺害した青年と変わりない、野蛮で無意味な暴力なのだと。

「復讐は何も生まない」というフレーズは、復讐者を止めるためによく使われるが、この場面ではサバイバー本人が犯人に対する復讐が何も生まないことを理解してしまっている。個人を殺害したところで、彼を生んだ「全」が存在する限り、次の「青年」がまた銃を提げてやってくるだけだ(誰もが「青年」になりうるのだから)。そこからはなにも生まれない。生むとすれば果てのない憎しみと死体だけだ。目の前の青年は殺したいほど憎い、けれど殺すことに意味はないと理解してしまったいま、殺したところでこの憎しみは癒えるだろうか。魂は取り戻せるのだろうか。「あの出来事」は終わるのだろうか?感情と理性のあいだで迷いながら、ギリギリのタイミングで突き動かされるように青年を殺さないことを選択したクレアは、「どうしてそんなことしたの?」という問いかけへの答えをもたない。

サン=テグジュペリ「夜間飛行」に、長年勤めた飛行機の整備士をただひとつのミスで解雇する場面がある。主人公はその非情な選択について、「ミスを犯した整備士を憎んでいるのではなく、整備士を通り抜けて現れるミスそのものを憎んでいる」「(ひとつのミスが人の死に繋がる仕事なのだから)情に流されず決定しなくてはならない」(※記憶に基づくだいたいの要約)とモノローグで語る。罪は個のものではなく、すりぬけて個を通じ表出するものである。だからこそ、個人個人がそれを表出させない安全機構として働くよう、禁を犯した者を厳しく処罰する。クライマックスで青年の毒殺を思いとどまったクレアは、罪の所在に関してこれに近い考えを抱いていたのではないか。

ただし、クレアの選択は真逆である。罪を犯した青年という「個」への復讐ではなく、青年を生み出した「全」と闘うことを選択する。自分に銃を突きつけ、すぐそばにいた団員を目の前で撃ち殺し、それを本気で「覚えていない」と言った男を、決して許したのではない。「個」の殺害をもって表面的に事件を終わらせるのではなく、誰もが青年になりうる社会という「全」と闘うことでしか、悲劇は終わらないのだ。

ラストシーン、再び合唱団らしい(儀式めいたものではない)唱歌をうたう合唱団を指導するクレアの姿は、テロ攻撃を受けてなお多文化主義を貫くことにより「あの出来事」との闘いに身を投じたことを示している。攻撃に屈さず、多文化主義を社会に根付かせ、二度と「個」に銃を撃たせない「全」を目指す。

魂を取り戻したとまで言えるかどうかはわからない。けれどひとが再び立ちあがり、前を向く姿は、魂を取り戻そうと苦しみ、事件を理解しようと走り続けたサバイバーの物語の終わりにふさわしいものだった。

*1:「確信犯」という言葉が故意犯の意味で使われている例を多々見るので念のために書いておくが、ここで言う確信犯とは辞書的な意味どおり「宗教的・政治的な思想から、自らの行為が罪にはあたらないと確信して犯行に及ぶもの」という意味で使っている

*2:例を挙げると、私は性的多様性に関して「存在するものは存在するのだ。そしてそれは『そう』である以上の意味なんかない(クリエイティブとか社交的とかは性自認や性指向とは別のカテゴリの話で、男性はこうだの女性はこうだのと決めつけるのが馬鹿げているのと同じように、ゲイだからこうだのトランスジェンダーだからこうだのと決め付けるのはまったくもって馬鹿げている)」と考えているが、シスジェンダー異性愛者以外は病気もしくは障害であるという価値観からすれば、私は「誤っている」だろう。どちらかが絶対的に正しいということはあり得ない。そのときどきで社会においてどちらがより好ましい振る舞いか、ということが言えるだけだ

擬音が独特、代わりになってない、また話が長い、本棚を把握してない

慌てたように冬がきたな。季節の帳尻の合わせ方が今年は随分雑だ。

寒いので会社内でも着膨れして歩いていたら会う人会う人に「寒いの?」と聞かれた。さむいですよ、と会う人会う人に答えた。あれは会社のあるあたりの土地の言葉で「会社員が着膨れるな、みっともねえから脱げ」という意味かもしれないな、くらいの語学力はいちおうあるが、私の暮らす地方では使っていない方言なので、もしかしたら普通の世間話かもしれないしなー、と聞こえた通りに返事をしている。

 

よく擬音を使う。なるべく気分に沿ったものを使おうとするあまり受け手の印象にまで配慮をしていないと以前友人に指摘されたことがある。

そのときは確か「おまえの食べ物の表現はまずそう」と言われたのだった。「世の中にはびしゃびしゃのポテトサラダとむっちゃむちゃしてるポテトサラダあるじゃん?びしゃびしゃのほうが好きなんだよね」といったらそう返ってきた。ポテサラの好みの話をして擬音の使い方に食いつかれるとはな。

「伝わるっしょ?」と答えると、「伝わるけどすごくまずそう」と言われ、さらに「おまえは言葉に対して誠実であろうとするあまり人間の感情に不誠実」と追撃された。あまりにも的確なのでゲラゲラ笑って、実に良い指摘だと褒めた。反省はしていない(別に友人も反省を求めているわけではない。ツッコミ気質なだけだ)。

そのあとぜんざいを食べながら「食レポして」と言うので、「白玉すごいぬっちゃぬっちゃする!おいしい!」と言ったら友人は「食レポの才能ない!天才!?」と笑った。小豆によく溶けてるぬっちゃぬっちゃの白玉、あるじゃん。世の中にはさ。好きなんですよあれが。

 

そういう擬音遣いで暮らしているので、ゲームの「ツムツム」というのも擬音だと思っていた。あのぷにっとしたフォルムのキャラクターをつついたら確かに感触は「つむつむ」って感じしそうだなー、なるほどなー、いいセンスだなー、と感心していたら全然違った。あれ、「積む積む」なのか…。

 

先日のファンミ帰り、どうにもテンションが落ち着かなかったので赤坂から有楽町まで歩き、なにか食べようかと思ったが気分に合うものがなかったのでビックカメラポケモンを買った。

食べ物の代わりになぜゲームソフトを買ったんだ。買ったときはたしかに「これでいいか…」と思っていたのだけれど、なにもよくないだろうそれ。

手をつけるとしばらくポケモンしかやらなくなりそうなのでまだ開封していない。ごはんが作れるとか髪型の自由度が高いとかなんかいろいろやばそうな情報が聞こえてくる。震える。

 

舞台「あの出来事」(2019、新国立小劇場)の感想、最初はさらっと5行くらいでいいかなと思っていたのだけれど、書いているうちに…おや…?という分量になりはじめた。正直なところ単項立てるほど刺さる舞台ではなかったなと思ったのだけれど、戯曲の内容が趣味に合うせいかなんだか妙に楽しくなっている。モデルになった実際の事件の話を入れるとまたいっそう長くなるのでやめる(ノルウェーでは現在でも深刻な影響のある事件で、調べるほどに気が重くなる。ひととひととを分断するものについて見るのはとてもつらい)。

 

感想で引用しようと思った短編、一度読んだだけで持ってないから正確に引けないな…やめるか…と思ったのだけど、ふとスライド式本棚の後ろの棚を漁ったらあった。読んだ覚えはないからたまたま買ってあっただけだ。買っていて偉いぞ!といつかの私を褒めたが、いや読めよ、買ったの忘れてるなよ、とも思った。そして買った覚えはあるがすっかり忘れていた本もそこにびっちり詰まっていた。ははは、おまえらここにいたのか、はははは。……読む本が増えた。

しかし本棚の所定位置に無いなーと思っていたカフカ短編集も出てきたのでうれしい。舞台「ドクター・ホフマンのサナトリウム」(2019、KAAT)を観て、あー!この場面短編集にあったな!と思った(拷問の場面、これ「流刑地にて」だ!)ので、元をあたりたかったのだ。舞台自体はカフカの架空の「第四の長編」にまつわるものなのだけれど、予習としては短編を読むといいかもね、とパンフにあったので、おそらく短編集を元ネタにしたところがちょくちょくあったのだろう。私は一ヶ所しかピンとこなかったが。

カミュの「ペスト」を読みたいのだけど、この分だと部屋のどこかにありそうなんだよな、と思って本屋でいつも悩む。

積んであるやつを消化してから買うべきだというのはよくわかっている。

 

残業帰りに歩いていたら呼吸のたびに息が白く昇った。ほんとうに急に寒くなった。さては12月に間に合わせるために月末最終営業日に特急納品されたな、今年の冬。

生産性がなくて最高、へんな日記しかつけてない、人生初の文化圏ことファンミ

友人の誕生日を祝おうと遊びに行った。友人宅に2泊してどこにも行かずダラダラと喋ったり買ってきた冷凍ピザやケーキを食べたり、イラストを描いてもらって(友人は絵がうまい)褒めたたえたり、イラストを描いたり(私は下手だが友人は味があるといって描くと喜ぶ)した。生産性はなにもなく最高だった。予定があったり行きたいところがあったりしてだらだらするのはどうも気が急いて好かないが、「今日はだらだらしよう」と決めてなにもしないのは楽しい。元来怠惰な人間である。外になど出掛けたくない。舞台や美術や史跡がはやくVRで現実と変わらぬ精度で見られるようになればいいと思う。混んでるところ行きたくないし、そういうのを抜きにしたって、フランソワ・ポンポンの「シロクマ」とかなでまわしてみたいしな。

 

諸事情あって行けなくなったチケットを手放したのだが、どうしても観たい作品なので別日を取り直した。強行スケジュールを詰めてしまった。12月は暇なので身体を労わって家にいたい…。忙しく外に出るのは苦手な方だ。

もとのチケットは普段観劇に行かない友人に譲った。さして良席ではなく、しかもまだ公式でチケットが買える作品を譲渡成立させられる気がしなかったので、「タダでいいから貰わない?」と持ちかけたのだった。「暇だし観劇興味なくもないから貰うのはいいけど予習とかなくて平気?」ときかれたので「私もなにも知らずに取ったからわからんが平気だ」と答えた。「金のかかる趣味なのに雑だな」と言われてそうだね…と思ったが、推しがでていない作品はだいたいあらすじを見て「よさそう〜」程度のノリで取るので、知らない役者や知らない原作のものが多い。予習もたいていしていかない(原作やパンフレットなどを読むとなんとなく思い込みができて、あら?となったりするので、最近は本当に予習しなくなった)。それでも、というか、そのほうが楽しく観られる。だからおまえも目の前にある物語を楽しめ、背中は背もたれにつけとけ、携帯はしっかり切っとけ、あとはおまえの常識レベルなら大丈夫だ、と言った。チケット代を断ったら「とりあえずこれを」と手作りのシトロネット(でいいのだろうか、蜜漬けして乾燥させた輪切りのレモンにチョコレートがかかっているやつ)をくれた。私が前に貰った際大変喜んだからか、たまに作ってくれる。食べるとレモンのいい匂いがする。店で売っているやつよりも友人が作ったもののほうが口に合う。

 

仕事の後に待ち合わせてチケットを渡し、食事をしてだらだら喋った。ブログを始めたのだよというと「鬱々としたやつ?」というので、「公園で本読んだとか美術館行ったとかのマジの日記を書いてる」と答えたら「なんで?」ときかれた。マジの日記が書きたかったからだよ。毎日本を読み終わるほど勤勉でもなく、毎週末劇場に行くほど熱心でもないので、なにか見たときだけ書こうと思うと忘れてしまってなにも書かなくなるだろうから、益体もない日記を書くことにしたのだった。でもスペースが広いのでついついあれこれ書きたくなってしまう。

ゴドーを待ちながら」の、時間の感覚がなく昨日と今日の区別がつかないウラジミールとエストラゴンの姿が、日々をぼんやりと消費して過ごす自分のように思われたのだった。それに抗うために日記をつけたり、すこし長い文章としてブログを書いたりしようと思ったのだ。書いたところで思い出せない日々も多い。それでも書かないよりはだいぶマシだ。

というのは嘘の時系列で、実際に日記をつけ始めたのは「ゴドーを待ちながら」の観劇より前(鍵垢で記録をつけ始めたのは昨年10月、ブログを始めたのは今年4月)なのだった。しかし具体的に言葉にならなかったものが言語化されるきっかけはゴドーである。

書いた日記を読み返すとへんなことがメモしてあることもままある。「全身白い服に総白髪の老夫婦が立っていて道端がテクノ系のアルバムジャケットみたいになっていた」とか「電車内でこどもが口頭でポケモンバトルをしているが、互いに『カメックス、いっけー!』などとポケモンを繰り出すだけで技を指示しないので、いま10体のカメックスと3体のミュウツーが何もせずこの狭い車内にたたずんでいることになっている」とか。どんな日だったか思い出すよすがにはならないが、まあまあ面白い。どうやらその日は生きていたらしいな、ということもわかる。

 

で、去る11/24、諸事情こと「なるほどお歌が聞けるのか…」というノリで申し込んでしまった遠山祐介さんのファンミに行ったのだった。そういう文化圏に馴染みがなく、「ファンミ マナー」で検索してもめぼしい情報が得られなかったので、もしかしてめちゃくちゃ軽率だったのではと震えながら行ったが、同席の方々がとてもやさしく親切で、新参以下の人間にもいろいろ教えてくださったので楽しかった。遠山さんお歌がうまかったです。ゲストの石川新太さんもお歌がうまかった…。

聞いた話とか曲目とかをどこまでレポにしていいのかよくわからない(特別これはオフレコというような断りはなかったが一般的な感覚がわからない)ので、「お歌がうまかったです」以外に書いていいことが思いつかないのだが、LLLの思い出話は舞台稽古の裏話が色々聴けて面白かったし、来年のアナスタシアのグレブ役を受けた際の話は新参以下の身で聞いてもグッときたので長年のファンの方々にとってはなんかもう、こう、たまらんのだろうな……と思った。

あと写真撮影タイムにコスタードのポーズで写真撮ってもらったので、コスタード激推しオタクとしてはたいへんにこにこした。顔が良い人類と並んで写真撮っていい生き物ではないのだがな我は…と思いつつもいやコスタードの写真欲しいな!?という気持ちには抗えなかった。いやまあコスタードではなく遠山祐介さんなのですが。

遠山さんはめちゃくちゃサービス精神溢れててビビったし、それに対して全力で楽しんでいるファンの方々を見るのはとても楽しかった。私はひととひととの間に愛を見るのが好きなんだ…。

 

取り直した舞台が思ったより刺さらなくてすこしへこん…となったが「ファンミ行かないで予定通り舞台見てたら劇場で『何故…?』みたいな顔をしていたのでは?ファンミ行ってよかった〜!」と思うことで事なきを得た。得たのかな。

細かい場面は結構好きだったが、クリティカルに刺さるだろうなと思っていたので拍子抜けした。全体としてこの題材に対して私はどうも求めすぎる部分があったなと反省した。その件については後日。