クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

世界にかけられる額縁と遠近(クリスチャン・ボルタンスキー展「Life time」感想)

盆のあいだも働いていた。たいへん仕事がはかどり、平時の仕事がどれだけ非効率かを思い知る。

順番に並んでくれればたいていの仕事はきちっきちっと終わっていくのだが、もちろん順番に並んでくれるわけはない。あちこちに好き勝手ばらけるペンギンをひとりずつ連れ帰って魚を食わせるような仕事の仕方をしている。道路に出ようとするやつや逃げるやつを優先で追いかけるので、無害なところにいるやつの飯は遅くなり、かわいそうなんだがいかんともしがたい……すまんな……と思っている。

べつに動物関係の仕事ではないというか、生き物相手ではない仕事をしているが、ワ〜〜とやってくるメールやタスクを見ていると、そういう気持ちになる。

 

9月に休む予定がある。しかしそれでも夏休みが余るので、てきとうに休みを入れた。夏休みを堪能すべく朝から出かけて、六本木の新美術館のクリスチャン・ボルタンスキー展をみにいった。

美術には詳しくなく、現代美術はまったくわからないので、予習をしていこうと思い検索したがあんまり手応えはなかった。わからないものを探すときはふわふわしたキーワードで検索するので結果もかぎりなくふわふわしている。

インターネットにはなんでも載ってるんじゃあないのか。いやまあなんでも載ってるんだろうが、私は辿り着くことができず、結局はウィキペディアを読んだ。ユダヤ系のルーツをもち、ホロコーストから徐々に死そのものや存在と不在というテーマに移っていったことくらいしかわからなかったが、乃木坂駅についたので入って展示を見た。

 

どれもすごくよかった。「保存室(カナダ)」、「ぼた山」、「発言する」、「黄金の海」、「ミステリオス」がとくに良くてずっとそのあたりをうろうろと見ていた。「死んだスイス人の記録」のあたりも好きだった。

作品にはキャプションがなく、したがって作品を見てもタイトルはわからない。入室時に渡される、タブロイド紙のようなガイドに、展示室内の地図と番号、その番号に対応する作品のキャプションが載っている。展示全体をひとつの作品のように感じて欲しいという意図とのこと。せっかくなのでまずは説明を読まずにすべて観てまわり、そのあとで説明を読みながら巡りなおした。平日で人が少なかったのでできたことだ。

美術品のそばにキャプションがあるとつい読んでしまうので、作品をあまりよく見ずわかった気になってしまうこともある。この形式だとそれがなく、先入観もなく作品にいきなり出会うことができて面白かった。序盤と中盤のあいだあたりに「心臓音」(録音されたボルタンスキーの心臓音にあわせて電球が明滅する)があったので、会場全体が胎内を巡っているようだと思った。でもそういうことを除いても、外で新聞を読む人が少ない現代(電子版もあることだし)、そこかしこで新聞紙のようなものを熱心に読む人々が見られる光景自体がひとつのインスタレーションのようでおもしろかった。会場が薄暗いので、みな顔を紙面に寄せていて、熱心そうさに拍車がかかっていた。

 

「保存室(カナダ)」はたくさんの古着が吊るされた作品だった。さまざまな服があり、そのさまざまな服はかつて着られていたが、その服たちはもう着られることはなく、いわば服の死体である。 服たちは新品ではなく古着であるから、それらを着ていたひとたちと着られていた服たちには人生があった。そしてそれらはもうどこにもない。 そういう不在が服の数だけそこにあった。 よく考えればあくまで古着というだけで、べつに死んだひとのものだという明示的な説明はなかったと思うのだけれど、そんなことを考えながら見た。

「ぼた山」もそれに似た作品で、黒い服がうず高く山のように積み上げられている。ただしカラフルで一枚一枚がくっきりと分かれていた「保存室」に対し、「ぼた山」は黒一色なので(ボタンなども真っ黒で沈んでいる)、近づいてよく見ないとただのひとかたまりの山に見える。同じ服の死体であっても、「ぼた山」は個ではなく死の集合体に見えた。直近まで読んでいた本の影響で、特定の事象によって発生した死体の山のように感じた。弔うこともできないまま堆く積み上げられた、個を失った悲劇の総体のように思った。見る人やタイミングによっては別のもの、あるいは別の事象を想起するのだろう。抽象は抽象であり、明確な輪郭をもたないから、特定の具象をうつすことができる容れ物たりえるのだなと思った。

古着屋や骨董市でそういうもの(かつてひとの手にあり、いまはもうその時間は過去になっている)を見るときは、歴史やもののたどる運命についてのロマンを強く思う。 しかしボルタンスキー展という意図のある空間で見る古着には強く死を感じる。 物質としては同じようなものが、その空間の意図によってまったく違う意味をもつのがおもしろかった。

そういうことを考えているうちに思い出したのが舞台「ピカソアインシュタイン」(2019、よみうり大手町ホール)のセリフだった。「その絵は何が素晴らしいんですか?」と訊かれた画商サゴは、「それは…額縁だ!境界!境目!これがあるから絵になるのだ」と答える。また別の場面では、アインシュタインに「科学者は『点と点のあいだは直線で結ぶのが最短距離』とかいうのが仕事だろう?」と馬鹿にした態度をとっていたピカソは、口論のすえ「つまり、(アインシュタインの研究、そして科学とは)新しい世界の見方を、いまはまだどこにもない美を生み出すもの?」と問い、アインシュタインがそうだと答えるやいなや「兄弟!」と感激しながらハグを交わし和解する。どちらも、世界に額縁をかけて意味を与え、人に新しい見方で対象を見せることはジャンルを超えて尊い、という場面だと思った。作品のとても好きな場面だ。

美術のことはよく知らないのでわからないことが多い。特に現代美術はこれが…芸術…というやつなのか…?と戸惑いあるいは不思議に感じることもよくある。でも世界に額縁をかけるという意味ではなるほど芸術なんだな!!と今回の展示で強く納得した。

 

「モニュメント」や「死んだスイス人の記録」のような写真を祭壇状に飾りつけるものが広いスペースに飾られている部屋では、なんだか(それらの作品は死者の写真だと明示されているからかもしれないが)以前東京の警察博物館に行ったときのことを思い出した。何階だったか、殉職者の写真と死の経緯について記されたパネルが並んでいる部屋があった。予定の時間まで暇を潰そうと近くの無料の施設だというだけで立ち寄ったのだけれど、そこの部屋は時間をかけて展示を見た。一枚一枚を読んでいくと、さまざまな死があった。さぞ無念であろうという人も、きっと警察官としての本懐を遂げたのだろうという人もいた(本人ではないので本当のところはわからない)。しかしどのような経緯であっても警察官としての職務中に亡くなったことは同じで、そしてみなもういない。

そういえば「モニュメント」シリーズに使用されているのは、1930年代のオーストリアの高校やユダヤ系の子供達のものだという解説があった。かれらひとりひとりが実際にどうなったのかは知る由もないが、「1930年代のユダヤ系の幼児〜高校生」というかたまりで捉えたとき、かれらがその後どうなったのかについては、ひとつの想像に辿り着いていく。

「死んだスイス人の記録」は死亡記事から切り取られたスイス人の写真をクッキー缶に貼り付けたものを大量に積み上げた作品で、それらはなぜスイス人なのかというと、「歴史的に死すべき背景を持っていない民族」だからということらしい。その認識が歴史的に正しいかどうかはさておき(世界史にうといので)、意図は納得した。「モニュメント」シリーズとは反対の、意味を負わない個々の死だけを背負ったひとりひとりの集合体ということだろう。クッキー缶は骨壷のようだった。六本木の国立新美術館では壁沿いにキャビネットのように整然と積まれていたけれど、図録を見ると展示する美術館によっては部屋全体に石筍のように積み上げられ、その奥に別の作品(「アニミタス」など)が飾られていることもあるようだ。人々の死の記録の隙間から見るアニミタスはどう見えるのだろう。

 

「発言する」は木の脚とライトの頭をもち、黒い服を着、それぞれが胸についたスピーカーから死について問いかけてくる人形のような作品。 展示室に入ってすぐは気がつかず、それらが人間ではないことに気がつくとぎょっとした。かれらは小さな声で語りかけてくるので、問いかけを聞こうとする人たちは自然と彼らの近くに寄り添い、あるいは話しかけるように前に立つ。 胸のあたりにスピーカーがあるので、心臓音をきこうとするような仕草にも感じる。

死について問いかけてくるものたちは、「ねえ、一瞬だった? 」「お母さんを残していったの? 」「きみは飛んでいった? 」などと、抽象的な概念というよりは死という現象そのものについて問う。死は概念ではなく実際にある現象であり、生きものは必ず、そして一度だけ体験するものである。 そういうことを考えた。

 

「ミステリオス」は、鯨に語りかけるための鳴き声に似た音が出る巨大なホーンを海辺に設置して、鯨に時間の根源について問いかける作品(の映像)。三枚のスクリーンそれぞれに、浜辺に横たわる白骨化した鯨(左)鯨に語りかけるための装置(中央)その先にある海(右)という配置で映像が流れている。

解説を読む前は、鯨の不在についてのものだと思った。鯨のからだがあり、鳴き声があり、住処があるが、鯨は失われていて、それを蘇らせることはできない。決定的なものが(命が、あるいは魂が)失われてしまえばもう蘇らない。亡霊のように声だけが海に語りかけ続けるが、しかし語り手はもういない。語りに対して応答するもの(生きた鯨)もいない。だれもいない海がそこにあり、主体も客体も存在しないまま語りだけがある。そういうとてもさびしいもののように感じた。

しかし本来の意図は「鯨に話しかけた男がいた」という神話のようなものが残ることのようだった。すべてが失われても語りの中に何かが生き続けることを目指す、それは普遍的な芸術の姿だった。さらには「人間が滅びてもこの鯨の声を持つものは変わらずそこにある、そう思うと安らかな気持ちになる」という解説もあった。

物語は受け手のなかにあるという教育を受けた世代なのでそう思っている。しかしその受け手の思考に指向性を与え、物語を引き出すのが芸術の価値であるとも思っている。

ピカソアインシュタイン」の場面をまた引こう。バーでピカソを待っている恋人が、ピカソから貰った絵を同席したアインシュタインに見せ、アインシュタインはその絵を「二〇世紀がこんなふうに簡単に手渡されるなんて思ってもみなかった……紙と鉛筆はこの絵を描くために作られたのだ」と絶賛する。自分の気にいっている絵を手酷く批評されて面白くないバーの主人が「で、君が考えるその絵の価値は?」と訊ねると、アインシュタインは「この絵がいまここにある、それがこの絵の価値です」と答える。興味を惹かれ、バーの主人と妻、常連客、ピカソの恋人はアインシュタインが手に持ったその絵を覗き込み、「私は好きよ」「俺にはわからん」「ふぅん?」「この絵のモデル、私じゃないわよね?」と口々に感想を述べる。「こうして(見た人それぞれの)意見が五つ出ました。これが全人類なら何十億の意見が出る(ことがこの絵のもつ価値だ)」とアインシュタインピカソを評価する。劇場では好きな手触りの場面だと思いながらもしっかりとは噛めていなかった。それがこのときにそうかと腑に落ちた。人々から言葉を、思考を、物語を引き出すためのトリガー自体と、トリガーを作り出すものの価値は失われない。そして作品自体の意図とは違っても、私が考えたことの価値もまた失われない。そういうことだろうと思った。

 

神話をつくるというのがこの作家の近年のテーマ(?)だそうで、直島にある「心臓音のアーカイブ」もそのひとつらしい。そこを訪れたひとが心臓音を録音し、アーカイブされたそれらはいつでも聴くことができる。心臓音は増え続けている。その島について作家は「数千数万の鼓動をもつその島に私が行く必要はない。そこにそれがあること、そしてそれを知っていることが重要だ」といったそうだ。

なんとなくわかるような気がする。いつか、できれば大切にしている友人と行きたいと思った。いつか我々が憎み合って相去るとしても、アーカイブされた友人の心臓音がそこにあって、いつでも聴くことができる島がある、というのは美しいことだと思った。あるいはどちらかの天命が尽きたとして、たとえ実際に聴きにゆくことはなくても、そこにまだ心臓音が鳴っていると知っているというのは、救いであろうと思った。「そこにある」ことを「知っている」というのは、とても大事なことだろう。

 

大学の同期が死んで五年になる。都会の街なかであきれるくらいたくさんの人がいるなかを歩いていると、その何千人何万人のなかに偶然彼女がいる可能性が、もうまったくないのだということに気づいて、いつも新鮮におどろく。彼女の好きな作家が新刊を出しても、彼女はもう絶対に読めない。彼女の好きだったメゾンの新作が出ても、彼女はもう絶対に着られない。あんなにたくさん人がいても、でももう絶対にどこにもいない。誰ひとりとして絶対に彼女ではない。世の中に絶対ということはめったにないので、死んだ人間とは絶対に会えない、ということを思い出したときの、その「絶対」のあまりの強固さに、いつでもおどろく。

 

「モニュメント」や「ぼた山」、「保存室」を見たときには、私は抽象化されて普遍化された死について考えた。「発言する」を見たときには個人的な体験、事象としての死について考えた。人を個でみることとかたまりでみること、死を具象と抽象とでとらえること、そんな相反する思考が振り子のように行き来した。とても良い体験だった。

 

という感想を8月からぼちぼちと書いていて、もう10月になってしまった。

死についてこれだけ思いを馳せさせられる展示を見ておきながら生きていることに対してすこし甘え過ぎではないかと思った。