クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

雨の降る世界に光をあてたのはコスタード、きみだ!(舞台「ラヴズ・レイバーズ・ロスト」名古屋公演感想)

もうトンチキなタイトルつけるのはやめようと思ってたんだが、端的にいうとこういう気持ちになった。名古屋公演、そして大千穐楽、最高でした。

 

ラヴズ・レイバーズ・ロスト(以下LLL)について、まじめな感想は先日書いたのでもう大丈夫だと思っていたが、観たら観たであれこれと際限なく好きなところが出てくる。出てくるひとみんなのことが好きだからだろう。

なんだかふとTuba songで泣けてしまった。先日読みかえした「西瓜糖の日々」と少し重なったせいかもしれない。暮らしが良くても悪くても、幸せなことがあってもつらいことがあっても、なにがあっても人々は歌い踊る。日々は続く。そんなふうに感じた。それが先日は不穏でさびしいもののように思ったが(そして小説の描くものの受け取り方としてはそちらの方がしっくりくるのだが)、いまはやはりなにがあっても笑うことができる人間の強さと美しさのように感じた。

ビローンやアーマードをはじめ、舞台はいつも通り、いやいつもにも増して、大千穐楽に相応しく素晴らしかった。カーテンコールでの挨拶も素敵だった。カーテンコールで去ってゆきながら、ぽつりと「さみしくなるな」というようなことを言っていたのが村井さんにしてはちょっと珍しい気がして、なんだかすごくぐっときた。挨拶の途中で泣いている三浦さんに気がついてハンカチを差し出したときのささやかなやりとりも、座長としていつもこんなふうに過ごしているのだろうなと感じた。

村井さんの、舞台に出てこないスタッフさんに拍手をさせてくれる挨拶が好きだ。開演前から客席をあたためていた遠山さんと加藤さんの功労にちゃんと触れてくれるところも好きだ。ひとりも欠けることなく初日から千穐楽までを終えるのは決して当たり前ではなく、だから無事に終えられてよかったということを言ってくれるところも好きだ。作品が主演の自分のものなどと思いあがることなく、板の上にいる役者だけのものでもなく、作品に関わったすべての人のちからで成立しているのだということを、毎回きちんと言ってくれるいつも通りの挨拶が大好きだ。

推しがすてきなひとでいてくれて、また観にいきたいと思える役者でいてくれるのを見るたびに、このひとのオタクやっててよかったなと思う。

 

というわけで村井さんのオタクとしての私は心穏やかにLLLを観終わったのだが、コスタード激推しオタクとしての私の心は名古屋初日でバキバキにへし折られ、大千穐楽のアドリブで完全に救済されるジェットコースター状態で、もうめっちゃくちゃになっていたのだった。

 

わりととりとめのない話になるが、最終的には「遠山さん…コスタードを生きてくれて…ありがとう…」に辿り着く。前回はそこそこ描写や設定に根拠を求めながら書いたので、幻覚の可能性がある部分については念入りにエクスキューズしたが、今回は徹頭徹尾自分の視界の話しかしないので、幻覚の濃度も高い。つまりは相変わらず与太話である。

あと前回はかなり段階を踏んで提示したが、今回は「LLLには貧困層と富裕層の対比構造がある」、そして「コスタードの客席物販は客席が"Rich people"であることの指摘を内包しており、彼との交流は富裕層から貧困層への無自覚な加害の一幕である」という話は最初から前提として置いておく。

今回の結論は「雨の国にも光は差す」なのでわりと明るい話をするのだが、前提が暗いのと、前回同様必要な範囲であってもキャラクターに対しての「愚か」的な表現が許容できない場合や、考え方が合わない場合は本当にこの先読むのをおすすめしません。

貧困層…?加害…?何を言ってるのかよくわからないな?という場合は下記の記事を注意書に沿ってご確認ください。というか下記記事が合わない場合は今回も絶対に肌に合わない。こんなブログ閉じて推しのSNSを見にいきましょう。

楽しく観終わるつもりだったんだが、コスタードを膝に受けてしまってな(舞台「ラヴズ・レイバーズ・ロスト」感想) - クレヨン、それからカレンダー

 

(2019/11/27追記)

本稿の指すところは「コスタードがダルに手を差し出すアドリブは本編中に欠けていた種類の愛を作品に補完するものであり、またロマンティックな関係性を主軸に据えた『ラブコメディ作品』の中、アロマンティック/アセクシャルへの肯定として解釈しうる行動が取られたことは作品に新たな価値と視点を追加した点において非常な功績であったと考える」というように要約したほうが分かりやすいような気がしたので、本文より前に追記する。

これより後は上記の内容に関して、観劇後の乱れた感情に任せて書き綴った文章が続く。コスタード激推しオタクの幻覚に満ちた視界からLLL名古屋公演を観てみたい方以外にはそんなにおすすめしない。

(追記終わり)

 

 

念のためにこれだけは言っておくが、あなたが見たLLLがあなたにとっての真実である。私にとってそうであるのと同じようにだ。

これより先を読むのであれば、私の幻覚と妄言に惑わされないようにどうか気を確かに持って欲しい。騙されないでほしい。本記事は単なる一個人の解釈である。

 

 

というわけで注意はしたので好き勝手に喋り始める。

まずは心をベキベキにされた名古屋初日の話をする。といっても名古屋に至っていまさらベキベキにされたのは私の観察不足に起因するものであろうが。

先日書いたブログで「Change of heartのときに水飛沫をはねあげて浴びるコスタードがエモい(要約)」という話をした。しかしやはりあれは幻覚だったんじゃなかろうか、という気もしていた。だが名古屋公演初日でまさにこのアクションをやっているところを見ることができた!やはりラピュタはあったのだ…。感極まってしまって口元を覆っていた。人間なんでああいう時は口元を覆うのだろうな。エクトプラズムとか出るからかな。

ここまではよかったんだ。

問題なのが場面は飛んでAre you a man?が終わったあと、寝巻き姿のナサニエルとホロファニーズのもとをアーマード、モス、コスタード、ダルの4人が訪れるシーン。フランス王女たちをもてなす演目がTuba songに決まり、皆が去っていく。このときのコスタードの表情がいけなかった。コスタード激推しオタクと言っておいてなんなのだが、「行くぞぅ!」と楽しげにナサニエルと去ってゆくホロファニーズの後ろで、コスタードが「え?オレは?」みたいな顔をしていることに気が付いたのは、この名古屋初日のことである。だからそれ以前の芝居とは比較できない。遠山さんファンの方、ご存知であれば教えてほしい…いつからコスタードあんな顔してたんですか…?最初からですか…?私は…私はあんな大事なものを…見逃し続けていたなんて…。

 

私は先日の感想で「コスタードを見初めてくれるプリンセス(もしくはプリンス)はいないまま幕は降りる」と書いた。Academia後のジャケネッタに頼まれて手紙を読み上げるシーンのつつき合いとTuba songでのダンスの組み合わせから、ホロファニーズがコスタードを見初めているのでは?というルートも候補として考えたが、「知力に差がある相手をパートナーに選ぶかどうかの判断がつかないためこの記事では採用しない」とした。しかし本音ではあってくれればいいと思っていた。コスタードが人間社会へ参画するための切符をホロファニーズが手渡してくれる希望について、「検討材料が乏しいだけで無いとは限らない」と思ってはいた。

それをブチ折ったのが、ホロファニーズに置いていかれるコスタードの表情である。個人的な解釈として、コスタードとホロファニーズがLove's a gun前につつき合いながらハケたあと、お互いに合意している成人男性と成人女性が一夜を過ごすにあたり一般的であろう手順を踏んだと思っている。柔肌の熱き血潮にふれたその温度がまだ体になまなましく残っているのに、振り返りもせず他の男と去っていく彼女の背を、「オレは?」と驚いた顔で見ている。そういうふうに見えてつらい気持ちになった。様々なセリフや描写からウェイトレス以外の収入源について推察されるジャケネッタと、もしかしたら同様の職を持っているのだろうか、と若干思っていた*1のだけれど、あの顔を見る限りおそらく彼は普通にかわいい/美しい女性を片っ端からナンパしているだけだな。金銭のやりとりがあればあんな顔はすまい。そう思うと尚更つらい。リゾート地で一晩だけ見る夢として手頃な男コスタード…。でも…きみの見る夢は…どうなるんだ…。

 

という感情に整理のつかないまま名古屋2日目、大千穐楽を観た。

あんまり関係ないが書くところがないのでここで書くと、客席で物販まわってるときのコスタードになんか違和感あるなと思ったらたぶん袖おろしてたよな(舞台上では常に肘でまくっているが、客席では長袖だったような気がする。気がするだけかもしれん)。寒いんだな、11月の日本は。アメリカの常夏のリゾート地とは気候が違うのだろう。寒いところまで降りてきてくれて本当にありがとう…。

あと前説のために出てきたときだかその少し前だか、スタンドマイクのあるステージ上で踊ってたの、ハァッ…めっちゃ可愛かった…。東京のいつだか忘れたけれど客席から「踊ってー!」と声がかかってちょっとだけもちゃもちゃ踊って「…なんの時間!?」って突っ込んでたの可愛かったので、ロング版が観られて良かった…。客席のメンズから「コスタードォォ!」って声がかかってたのサイコーすぎた…。若い男性の声だったのでおそらくはガールズのどなたかのファンでしょう、自推しじゃなくてもしっかり盛り上がるサイコーの客席をありがとう…。いや遠山さん推しのメンズかもしれませんが。

あと手紙をロザラインに誤配するシーンでセリフ飛んで「この中で…あのー…いちばん尊大な…じゃなくて…なんだっけ?」って普通に聞いてたの、トチってんのに堂々としてるのがあまりにもコスタードだった。ロザライン役・沙央くらまさんとの「なんで笑ってんの?」「だっておかしいから」みたいな自然なやりとり(このあと記憶を吹っ飛ばされたので正確に覚えてないが)のおかげで富裕層と貧困層のコミュニケーションエラーみたいに収まってるのが流石だな…という感じでしたがそれ以上に可愛かったですね。コスタード絶対喋ってる途中で自分がなに言ってるかわかんなくなってきて「…で、なんだっけ?」て聞いてくるもんな(幻覚)。東京公演の前説で噛みまくった回*2のことを思い出した。

 

ちょっと興奮しすぎた。

閑話休題。本筋に戻ろう。

Change of heartでのコスタードの水遊びが、掬った水を跳ね上げて見上げる→浴びながら髪の毛をかきあげる という流れで、跳ね上げとかきあげとどっちが見られるのかなと思ってたら両方だったのでもうなんだか、なんだかもうになってしまった。

先に書いた感想で、私はアルベール・カミュの戯曲「誤解」を引用し、貧困の中に生まれたがゆえに選択肢のない暮らしをしているコスタードの環境を「雨の国」、その対極にある理想郷、あるいは富裕層の暮らし、コスタードが生まれながらにして奪われた様々な権利を「南の国」と表現した。

コスタードは南の国を知っているだろうか。彼が生まれながらにして奪われたものを知っているだろうか。自分を勝手に獣として分け、社会から閉め出したものたちが、一方では自分を人として人間社会のルールをもって裁くことを、理不尽だと知っているだろうか。「それはそういうもの」だと思っているのではないだろうか。永遠に降りしきる陰鬱な雨の国で、太陽のような男は自分が奪われたものを知らずに生きていくのだろうか。

そしてChange of heartにおける「水を跳ね上げて見上げるコスタード」に私が見た幻覚は、陰鬱な雨の国で機嫌よく暮らす、太陽のごとき男の美しく切ない姿である。

Change of heartでプールの水を掬い、投げ上げてその飛沫を機嫌よさそうに浴びるコスタードを見るとき、どうにもたまらなくなる。照明を受けてきらきら光っているであろう水滴たちを機嫌よく見上げている姿は、雨の降りしきる寒い薄闇のなかから美しいものを見つけ出して笑って暮らしている彼の人生のようで、そこよりも南の国のほうが優れているというのは、価値観の偏りによるものではないかと思う。けれど健康保険に入りたいという言葉がやはり刺さって抜けないのだ。なにかを正しく欲しがれない、未来も過去もない彼が唯一発した、あしたを望むことばだったと思うから。

こういう幻覚を見ているオタクが、自ら掬って投げあげた水飛沫を見上げ、雨のように浴びながら機嫌良さそうに髪の毛をくしゃりと撫であげるコスタードを見たとき、どれだけ感情を揺さぶられたかについてはもう語る言葉がない。あまりにも雨の国に立つ太陽の男すぎた。そしてこんなにも美しい太陽のような男が、つめたく降り続く雨の檻に閉ざされた世界で生きてゆくことについて、なんだかもう、もう…となったのだった。

名古屋初日(11/16)開演前の客席物販が終わったあと、いつものようにダル、ジャケネッタ、コスタードの三人が舞台上で物販の終了と感謝をのべるところで、コスタードが「オレ、いま万単位のお金持ってます!……このまま逃げちゃおっかな」と言って笑いを取った。

大楽カテコのダル役・加藤潤一さんの挨拶によれば「運んだドリンクは1000本以上、運んだパンフは400冊以上」とのことなので、地方9公演で割ると端数を多めに見積もっても1公演での販売は50冊前後のはずである。つまりコスタードがあのとき手にしているのは1700円×50冊=85000円程度であろう。10万円に満たない金が「持って逃げる」という選択肢を視野に入れさせる金額なのだと思うとゔぁっ…となる。わかっている、わかっているよ、これはただの役者のジョークだし、本編の板の上での出来事ではないので持ち込むべきではないんだ。

でもフランス王女が「ただの紙切れ」「そんなものあなたにくれてやる」と言った10万クラウンの価値について少し話を聞いてほしい。

時代によりかなり変動するらしいが(ましてやこの時期は新大陸から金銀が流入していたためめちゃくちゃだったとのこと)、書籍を当たってくる時間と心の余裕がなかったのでソースはすべてインターネット上のものだと前置きはしておく。それと原作の舞台はフランスだが、作品自体はイギリスのものなので以下はすべてイギリス貨幣の話だ(間違っていたらどなたか訂正してください)。

で、まずは貨幣の話。1ポンド=4クラウン=20シリング=240ペニーなので、10万クラウンは50万シリング=2万5000ポンドになる。

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/E024.htm

こちらのページを参考に1590年頃の貨幣価値を見ると、1ペニー=1000円で計算せよとのことなので、1ポンド=240ペニー=24万円になる。雇われているパン職人の年収が30ペニー×52週でだいたい1560ペニー(=6.5ポンド)で、156万円。雇用者が支払っている食費がだいたい週に30〜50ペニーと給与とほぼ同額で、これも含めると実質だいたい312万だろうか。まさか高給取りではないだろうから、庶民層の所得と考えたい。

2万5000ポンドは同じ計算をあてはめると60億円である。舞台版ではカットされているが、フランス王女とナヴァール王が交わしているのは領地(アキテーヌ地方)の返還交渉なので、まあ億の金が動くのはわかる。しかし庶民の年収の2000倍の額を「そんなものあなたにくれてやる」と言うのだ王女は。

60億を「くれてやる」という王女がいるのと同じ作品内に、わずか10万に満たない額を「持って逃げようかな」という男が出てきたらそりゃあ呻く。85000円、大金ではある。しかし人生を救えるほどではない。雨の国から出て行くための旅費にはならない。

もう一度言うが、開演前のアドリブなので、これは板の上の出来事ではなく、したがって本編の解釈に含めるべきではない。でもなんかもうあまりにもクリティカルな対比だったからぐにゃぐにゃしちゃった…。

 

背筋を伸ばして次の話に行こう。Are you a man?後のホロファニーズたちと出し物を決める場面、あまりにも衝撃的だったあのアドリブの話をしたい。

私は大千穐楽だというのにうっかりオペラグラスを持ち込み忘れた。まあ見たいところは全部確認したし舞台全体を観るのには差し支えないからいいか、あぁでもホロファニーズに置いていかれるときのコスタードの細かい表情が見えるか見えないか私の視力(矯正しても1.0ない)では怪しいな…と思っていた。

実際には意外と表情は見えたのだが、表情が見える見えない以前に、「ナサニエルとホロファニーズが手を繋いでいるのを見たコスタードが、自分もホロファニーズと手をつなごうとするように手を差し出し、それをホロファニーズは振り返りもせずにナサニエルと去っていく」という、あまりにも決定的な瞬間を見せられた。この遠山さんの芝居の方向性からして、昨日のあの表情も幻覚ではないことがはっきりした。「ピザハット!」のシーンでキャサリンにすげなくあしらわれるのは金の問題としてまだ堪えられるが、このシーンは彼には愛さえ手に入らないという決定的瞬間である。ホロファニーズにとってコスタードが一夜のバカンスの相手でしかないことを見せつけられ、ヒンッ…………と悲鳴が出そうになったのをハンカチ握りしめて堪えた(なおホロファニーズが振り返らないのは元からなので、あの場面で手を差し出したコスタード役・遠山祐介さんのアドリブがむごいくらいに噛み合った結果、とんでもないダメージを叩き出しただけである)。

そしてそのあと、ホロファニーズが去っていったのを束の間ぽやんと見つめたコスタードは、一行に遅れてゆっくりやってくるダルを振り向き、ホロファニーズにフラれた手を差し出した。ダルはやや戸惑ってからその手を握り、ダルとコスタードは手を繋いで去っていった。

 

それを見てコスタード激推しオタクの心は完全に救われたのだった。

 

劇場でなかったら「Familyじゃん!!!!!!」と叫んでいた。劇場なのでハンカチを握りしめ口元に当てていた。頑張ったがオーバーキルだったのでちょっと「ヴァッ…」くらいは多分漏れた。申し訳ない。

 

私の使ったFamilyという言葉については少し説明が必要だと思う。一般的な血族の単位としての「家族」ではない。舞台「RENT」における「Family」、およびそこで描かれる愛が、コスタードとダルの間にあったように見えた。これらの言葉は舞台RENTを履修していない場合、意図とは異なる方向性の理解*3を生む語であると思うので読んでほしい。履修済みであれば言いたいことは大体わかるだろうからRENTに関する説明のあたりは飛ばしてもらって構わない。

なお、舞台の、とこだわるのは、映画版は全く違う物語だと思っているからだが、今回の本筋ではないので触れない。いつかRENT2015/2017の翻訳が素晴らしいというブログを書くのでそのときに話す(かもしれない)。

 

「RENT」は金はないが愛と情熱はあるアーティスト未満の若者たちの一年を描いた青春群像ミュージカルである。同性愛、薬物依存、貧困、AIDS、それらへの差別などの複数トピックが絡み合うストーリーだが、芯はシンプルに愛の尊さを描いたものだと私は思う。愛は無力で無価値で無意味で、それでも絶望の底に届く光は愛だけだ、だからひとは愛によって立ち上がることができるのだ、という物語だと受け取っている。愛が無力であることを徹底的に描くからこそ(愛は貧困を解決しない。愛は差別見からひとを守らない。愛は薬物依存を治さない。愛は末期の苦しみを和らげない。愛は不治の病を癒さない。愛は葬式代にはならない。愛は問題をなにひとつ解決しない。それらを解決あるいはやわらげたのはいつも金だった)愛そのものではなく、愛がひとを動かすことが素晴らしいのだということが力強くうたわれる人間讃歌である。大好きな作品だ。

作中で描かれる愛は、恋愛的な意味のものだけではない。男女のカップルも男男のカップルも女女のカップルも出てくるが、それらとはまたべつに友愛も描かれる。性別に関係なく惹かれあい結ぶ恋愛感情と同様に、男と女の間にも性的な打算のない友情が成立している。時に諍いながらも連帯するかれらの絆は、作中で「Family」と呼ばれる(Halloweenのコリンズ歌唱パートより)。俗語としてのFamily(fam)を検索すると、「家族のように親しい関係(およびその相手)」とあった*4。しかしそれ以上に、婚姻や血縁などの関係がなくとも肩を寄せあい連帯するひとつの単位として共同体を構成できる、という既存の制度や価値観から解放された絆のかたちにも感じる。私はしばしばその意味でFamilyという語を使う。

愛という言葉の使い方についても同様である。狭義の恋愛感情ではなく、相手を思いやりいつくしみ支え合う人々の、すべての欲を剥がしたあとにのこる美しい感情、つないだ手と手のあいだにあるものを私は愛と呼ぶ。泣いているひとを抱きしめるとき、喜んでいるひとと笑うとき、眠れない夜を分かち合うとき、希望に向かってともに駆けるとき、涙を拭って前を向こうとするひとのそばに寄り添うとき、そこにある光を私は愛と呼ぶ。不条理作品好きのロマンチストなので、無力で無価値で無意味な愛がひとを救い、何度でも立ち上がらせる虚構の光を、現実にもあるものだと信じている。そうでなければこの世はあまりに救いがない。

 

そういう愛を、あのときのダルとコスタードのつないだ手に見た。かれらは友愛によりつながるFamilyなのだと思った。そしてFamilyがいるのだから、コスタードはきっと大丈夫なのだと思えた。雨の国がどんなに寒い場所でも、そばに人の温もりがあることは希望だろうと思った。

コスタードがダルに手を差し出し、ダルがその手を取ったことについて、ふたりはそもそも友人なのだし当然なのではないかと思う向きもあろうが、実は彼らが明確に仲良くしているのは開幕前の客席降りの際のみである。本編中に彼らが友人であるという確かな描写はない。…なかったと思う。だから先日の感想は、ジャケネッタがアーマードに手を引かれて去ったあと、コスタードはたった一人で雨の国に住み続けるのだろうかと思いながら書いていた(コスタードとジャケネッタは同じ職場の人間なので、描かれなくとも友人関係があると想像する余地はあったろうと思うし、行動を何度も共にしていたので親しくあったと思っていいはずだ。それ以上の親密な関係があったのかどうかについては判断しかねる*5*6)。

しかし大千穐楽の板の上、本編のなかでコスタードは手を差し出し、ダルはその手を握った。彼らはただのバーテンとそれを捕縛した警官ではなく、手を取り合う友人だったのだと本編中で示す出来事が起きたのだった。さらにいえば、差し出した手に気がつかず無視する者もいれば、その手を取って共に歩いてくれる者もいる、と示されたこともなんという希望だろうかと思った。

Tuba songの終わりに、父を亡くし悲しみにくれる王女に対して、話の仔細を理解していなさそうな顔をしつつもひとりだけおずおずと脱帽していくコスタードは、他人の悲しみや苦しみに寄り添うことのできる人物であることが示されている。話を理解できず一行から遅れていたダルに対してコスタードが手を差し出し、共に行こうと誘うことで、そのやさしさを示す描写が増えたのもうれしかった。コスタードは…すごく…いいやつなんだよ…。

 

前回の感想ではラブコメディとしてのLLLにほとんど触れなかった。正直なところラブコメにあまりぴんとこないタイプであるのに加え、キャストの魅力を取り除いたところにあるのはきわめて凡庸なストーリーであると思ったため、特に触れる必要性を感じなかったからである。ただ、作者はおそらく故意に「お約束に満ちた凡庸な物語」を作ったのだと考えている。

理由のひとつはChange of heartの「歌い上げない ミュージカルみたいに」やTuba songにおける「時にはお客がスタンディングオベーション まるで芝居の終わり」「いつの間にか歌ってる お約束 それがミュージカル」のようなメタっぽさを含む歌詞だ。Rich peopleでコスタードが中指を客席にむけて立てることとあわせると、作者は「ミュージカル」という形式そのものを意図的に利用しているのだと思う。ミュージカルであるから、歌で多少の強引なショートカットは許される。舞台であるから、振り付けは正面に向かって見せるものである。そういう客席との「お約束」を利用している。

またI don't need loveでフランス王女は「お金はいらない」「自由もいらない」「家族さえいらない」「(あなたの愛の詩以外の)ソネットはいらない」と歌うが、悪く言えばありきたりのセリフばかりの歌である。もちろん、だからこそ彼女の慕情がいつの世にも変わらぬ種類のものであることを示しているのだし、むやみに言葉を飾り立てるよりはよほどピュアな愛の歌で、ずっと素直になれずにいたフランス王女がそれを真摯に歌い上げる姿はいじらしく可愛らしい。だが私は作者は絶対に性格が悪いと思っているので、「ありきたりのセリフばかりの愛の歌」を作ることで、ラブコメディ部分をわざと凡庸にしたのではないかと思う。

やや脱線するが、そもそもI don't need loveはフランス王女役・中別府葵さんがとても可愛らしく魅力的で彼女に寄り添いたくなるからこそ胸を打つ切ないラブソングとして成立しているのであって、歌詞にはかなり悪意があると思う。ここからしばらくはフランス王女のファンだと気分を害する可能性があるので、だめそうなら飛ばしてください。

I don't need loveのフランス王女は言葉そのままの意味で「お金はいらない」「家族はいらない」と言っているわけではない。あくまでも「なにもいらない、愛さえいらない、(欲しいのはあなただけ)」という強意のための「なにもいらない」という比喩の積み重ねである。国王と王女という「避けられない運命」は、彼女らの背負っているものが国であり、一個人の感情では動けない立場だという切なさを指している。だが同時に、父が病床の人であるにもかかわらず、比喩であっても「家族もいらない」と言ってしまう。国と国との交渉にやってきたその材料を、一個人の恋のために「いらない」と言ってしまうのだ。そのために彼女の「避けられない運命」に関する言及も、王女としての自覚と責任というよりは、自らの悲恋に酔う子供っぽさの表現のように感じられる(ここで子供っぽい振る舞いを見せているからこそ、Tuba songの最後で訃報を受け、真に国を背負うものとしての自覚が生まれた彼女の凛々しさが際立ち胸を打つのだが)。重ね重ね、フランス王女の魅力は見た目がゴージャスな美女でありながら子供っぽい無邪気な魅力をはつらつと湛えた中別府さんのキャラクター作りの良さに大いに寄るものだと個人的には感じている。

フランス王女のこのキャラクター造形は、舞台版作者の意図をよく表したものだと思う。古典的でベタな愛の言葉と、あまりひねりのない「お約束」に満ちたラブストーリーによって、LLL第一の顔であるラブコメディは作られる(ベタなラブストーリーが魅力的に演じられなければ作品が成立しないので、各キャラクターが素晴らしい演者によって命を得たことは幸福である。本当に全員当て書きかと思うくらい良い…)。そしてその第一の顔が、顔が……、えー……、若さと浅慮に満ちた浮ついたラブストーリーであることで、第二の顔である富裕層と貧困層の対比による格差社会への風刺が効いてくる。「ラブストーリーにひねりが/深みがない」という感想をたまに見かけたが、以上の理由から「それはわざとだと思う」というのが私の考えだ。

この文脈をもって聴くともっともぎょっとさせられるのが、ジャケネッタの歌うLove's a gunである。「愛は芝居」「台本通り演じるくだらないコメディ」「意思のない人形のように同じことをただ繰り返すだけ」「結ばれる結末掴み取る そしてアプローズ その先はないの」といった歌詞は、彼女がそれまでの人生で心身をもてあそばれて深く傷ついてきたことを表現しているのだが、同時にラブコメディの芝居であるLLL第一層へ、第二層である富裕層対貧困層の風刺という立場から向けられた冷ややかな視線ともとれる。ジャケネッタ自身は最後にアーマードと結ばれるが、Love's a gunの時点では彼女は愛を信じていない。華やかで甘くせつない恋愛騒動は、富裕層の余裕があってこそ楽しめる、遠い娯楽のようにも感じられる。先日の感想で書いたが、(このミュージカルの初演は野外シアターの無料公演だが)現代日本での「芝居」は金と時間に都合のつけられる余裕をもつ、ある程度豊かな暮らしをする人間の娯楽である。

同様に、LLL作中において愛は富裕層のものだった。王侯貴族の青年たちや大学教授たちのものだった。恋愛以外の愛も、主人と従者のあいだにある思いやりや、人とねこのあいだにある絆*7などだった(ジャケネッタは貧困層だが、アーマードによってその世界を脱出している)。

そんな作品の中で、コスタードはたった一度手を差し出しただけで「ひととひととが寄り添えばそこがどこであろうが愛は生まれる」と示し、雨の国に光を照らしていった。あまりにも衝撃だった。そんなアドリブ一発でミュージカル作者も想定してなかったであろうピースをブッ込んで完成させて去っていくやつがいるかよ。いたよ…。

 

客席やツイッターの呟きで愛されているコスタードを見るのがとても好きだった。客席から「コスタード!」と老若男女の声が飛び、それに応えているコスタードを見るのが好きだった。キャサリン役・伊波杏樹さんのラジオ*8で言及があった際に、ツイッターを見ていると伊波さんのファンの方々が「みんな大好きコスタード!」「コスタードいいよね!」と言っていて、ウワ…愛じゃん…と思った。

作品の外側の世界では誰からも愛されていて、でも、作品の内側にそれは届かなくて、彼に届くのは"Rich people"から貧困層への加害というかたちのものだけ、という構造なのが、とても美しいと思うと同時にしんどかった。完全に干渉不可能な作品であるならばまだしも、加害は可能なのに人々の愛が彼を救うことは不可能なのがあまりにもつらいと思った。

でも大千穐楽の板の上、彼の住む雨の国にも愛はあるのだと示されて、外側の愛など届かなくてもコスタードは大丈夫なのだとわかって、とても救われた気持ちになった。そして恋愛騒動が話を動かすラブコメディ作品のなかで、ひとを救う愛は恋人たちだけのものではなく、互いの手を取りあう者たちのあいだであれば、どんな形であろうとちゃんとそこに生まれるのだと見せてもらえたのもうれしかった。恋は尊い。でも恋を含まない愛もまた尊い。ひととひととが手を取り合うことは尊い。そう言ってくれたように感じた。

Tuba songに「この空はぼくらのもの 愛し合う 夜が明けるまで さあパーティのはじまり!」という歌詞がある。わたしはずっとこの歌詞を残酷なものだと思っていた。Rich peopleで「この空は奪えない」と歌っていたダルに「この空はぼくらのもの」と歌わせることについて、貧困層と富裕層との分かちなく空は等しくすべてのひとのもので、富裕層が奪うまでもないのだということを、よりによって作中もっとも富裕層を嫌悪しているダルに歌わせるのかよと思っていた。

けれど恋人たちだけでなく、友人たちのあいだにも、主人と従者のあいだにも、人間とねこのあいだにも、富めるものにも貧しいものにも、それぞれに愛があるのだということを思いながらダル役・加藤潤一さんのあたたかく響く歌声を聴くと、それは生きとし生けるものたちすべてのあらゆる愛を寿ぐ祝祭のことばなのだった。

 

コスタードとダルがFamilyとして連帯したところで、暮らしが好転するわけではない。ダルは明日も街にやってきては好き勝手に騒ぐセレブたちに振り回されて苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。コスタードは明日も保険に入れない男のままだろう。いつか野良犬のように路地裏で死ぬかもしれない男であることに変わりはないのだろう。現実の問題は金がなければ解決はしない。

それでも、その日までそばに友がいるということは、孤独ではないことは、救いだと思った。ビローンたちが肩を組み、互いの苦楽を分かち合ったのと同じように、コスタードにも肩を組む相手がいることが示されて、ほんとうによかった。

 

RENTのラストナンバー(Final B)は、「There is no future, There is no past, Thank God this moment's not the last!」と始まる。2015/2017の日本版では「未来もない 過去もない ここで終わりじゃない!」と訳されている。「There is no future. There is no past」は他の曲でも出てくるフレーズだが、Final B以前では「未来もない、過去もない、いまを生きるだけ」というのは、遠くない死に背を焦がされ「いましかない」と生き急ぐ、ネガティブな意味合いで使われている。

しかしFinal Bにおいては、失敗と後悔にまみれた過去も、不安と恐怖に満ちた未来*9もない。自分はいまここにいて、そして、ここからもういちど始めることができる。それがいつまで続くのかはわからなくても、いま自分は生きている。そういうフレーズに変化する。顔をあげて歩き出す人間の決意を照らす、今日を生きてゆくことの大切さを歌いあげる人間讃歌になる。

コスタードとダルが手を繋いだあの瞬間、私はそういう反転を見た。彼らのいつか死ぬ運命に心を痛めるよりも、彼らがいま笑顔で生きていることを喜ぶべきだと思った。生や希望に目を向けることは、死や絶望から目を背けることと同義ではなく、むしろそれらと立ち向かうための最初の一歩だ。

先日書いたように、LLLが毒と悪意をさりげなく隠した作品であること、明るくハッピーなだけの作品ではない構造が美しくて大好きだと思う気持ちは変わらない。それでも、毒と悪意だけではなくて、愛で人生を数えることを改めて思い出させてくれたことで、いっそうLLLのことが好きになった。

 

コスタード役・遠山祐介さんがなにをどのように考えてあのとき手を差し出したのかは知るよしもない。ホロファニーズに無視される芝居については方向性を感じるが、ダルに手を差し出したことについては、ほんとうになにもわからない。私のこの記事で書き綴った幻覚よりもはるかに深遠な演技プランがあったのかもしれないし、なんとなくやっただけなのかもしれない。

でも私はそこに愛と救済を見た。なんと美しい瞬間を、希望を、光を見せてくれるひとだろうかと思った。雨の国にも光は差すのだということを見せてくれた、あのときコスタードはまさしく太陽の男だった。遠山さんがそんなふうに美しくコスタードを生きてくださったことを覚えていようと思った。

 

でも人間の記憶は脆弱なので、円盤とか贅沢言わないからせめてWOWOWなんとかしてほしい。

*1:貧困層の」「若くて美しい男が」「後天的にバイセクシャルとなる環境」という要素を並べると、そういう可能性もあるのかな…程度には考えていた。なおコスタードはアーマードに「そっちの筋の方」と言ったので後天的なものであろう。先天的な性指向に男性が含まれているならば、自分と違う筋の人間のような言い方はしないと思う。

*2:「さしん撮影は禁止です!…さしんつった!?いやオレさしんて言うから!さしん撮影禁止です!」「従ってくだちゃい!…くだちゃい!?どうしようオレ今日すごい噛むね…」10/21ソワレ前説メモより。「写真」を噛んで「さしん」になるの、原作の田吾作コスタードっぽさあってかわいかった…。ちくま文庫2008年松岡和子訳のコスタードめっちゃかわいいんすよ、王様に向かって「(王の布告について)聞いてたけど、あんまり気にしてませんでした」とか言い出すし…

*3:コスタードはバイセクシャルなので、そこにあるのが恋愛である可能性を完全に否定するのは不誠実である。ただこれが現実であれば性愛で何の問題もないのだけど、虚構のラブコメディたるLLLにおいては「性愛でない愛が生じる」というのが非常に重要だと考えているので、私は友愛としての解釈を採る。詳しくは後述する

*4:そもそも家族が「親しい共同体」であるとすることへの是非に関しては長くなるので今回は置いておかせてほしい

*5:ジャケネッタの初登場シーンの立ち姿から判断すると彼女はコスタードに対してそういう感情を持っていなさそうなのだが、Jaquenettaでタンゴを踊る際には妖艶な笑顔を浮かべて熱っぽく見つめあっているので、こういう文脈内のダンスシーンが多くの場合行為の比喩であることも含め、そちらを採用するのならば関係はあったと考えてもいいと思う。しかしあれが実際の出来事の暗喩なのか、単にJaquenetta時のジャケネッタがどちらかを選ぶならコスタードの方である/アーマードに対して興味がないという意味合いの、三人の関係性についての抽象表現でしかないのかまでは判断しようがない

*6:別の解釈として、友人が「タンゴを踊っているのはコスタードではなくジャケネッタの過去の男たちの総体」と言っていたのが好きだ。俯き気味で顔が隠れがちだったのもそういうことではないかという。私はハケ際のアクションがコスタードだったので全体的にコスタードとしてとっているが、それはそれとして良い解釈だし好きだ

*7:ねこを愛するモスは安月給と揶揄されていたものの、金持ちであるアーマードの部下であるし身なりもよいため、貧困層とは言えないだろう

*8:伊波杏樹のRadio Curtain Call』。アーカイブで聴いたら兵庫公演後救急車に乗ったとのお話をされていたのでめちゃめちゃびっくりした、大病などではなくお体にあまり障りもなかったようで本当によかった…ファンの方々ともどもあったかくおいしいものを食べて健やかに過ごされてほしい…

*9:RENTにはAIDSに罹患したキャラクターが複数出てくる。彼らにとって、未来とは遠くない死を内包したものである。そして今日の糧にも事欠く貧困層のコスタードもまた、未来が明るいものだとは言いきれない。