クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

時間と空間を超える「リモート」の新しい魔法(「僕等の図書室 リモート授業」感想)

※今作メインキャストの中の亡くなった方に関する言及があるため、該当するキャストのファンの方が閲覧される際には充分にご注意ください。

※作品構造についての感想です。作品内容、キャストに関する感想はほぼありません。

※上演内容に関する言及(ネタバレ)があります。

 

 

締切がないとうっかりいつまでも先延ばしにするたちで、村井さんのオタクをやっているにもかかわらず「僕等の図書室」(通称ぼくとしょ)シリーズはDVDを買っただけで一切が未見である。

なので以下の文章は「まぁくんの走れメロス」「マッチ売りの少女原田」「たっきーの星の王子様」「智恵子抄(新作)」のみを見た人間の手によるものであることを了解されたい。

 

 

「僕等の図書室 リモート授業(以下、ぼくとしょリモート)」を観劇した。自粛が始まって以来はじめての観劇である。自宅ではあるが着替えて座った。観劇趣味に「劇場に行く」という儀式をもって異界へアクセスする行為を求めている節のある人間としては正直なところ自宅で観るという行為にあまり気分が乗らなかったのだけれど、観てみれば「リモート演劇」でなくてはなしえなかった美しい作品ですっかり感じ入った。

 

 ぼくとしょリモートは過去作の映像3作+リモート収録された新作1作の4作構成になっている。ストリーミング配信のプラットフォームであるe+の告知によれば、上演内容とキャストは次の通り。

 

▼過去シリーズ舞台映像

・「まぁくんの走れメロス」(出演:大山真志滝口幸広井深克彦

・「マッチ売りの少女原田」(出演:原田優一、中村龍介滝口幸広

・「たっきーの星の王子様」(出演:滝口幸広三上真史木ノ本嶺浩

▼全出演者によるリモートリーディング

・「智恵子抄」(出演:荒木健太朗、井澤勇貴、井深克彦大山真志木ノ本嶺浩中村龍介、原田優一、三上真史村井良大

(※すべて敬称略)

 

(6/7 追記)

『僕等の図書室 リモート授業』開講決定! - る・ひまわり|演劇・映画・イベント等の宣伝、制作、運営

↑本記事にて言及している作品の公式はこちらから。2020/06/14 23:59までの配信です。

ぼくとしょシリーズは、本記事で述べた文脈とはべつに、それ自体が独立したとても良い朗読劇です。文脈を離れた単品で見たとき、個人的に一番好きなのはマッチ売りの少女です。めちゃくちゃな原作改変でありながら、とても美しい物語を疾走しているところがとても素敵です。

(追記おわり)

 

作品それぞれは独立した舞台として良い作品なのだが、これが「上映会」ではなく「リモート授業」であること、ここに滝口幸広さんの存在があることにより、新しい文脈がこの構成に表れる。

まず「リモート授業」であることの意義について。ぼくとしょシリーズは「国語の先生による授業」という設定の朗読劇である。キャストはそれぞれ「〇〇先生」となり、そのうえで各作品を朗読によって演じる。だからぼくとしょにおいて「授業」という言葉は「上演」と取っていいだろう。

また、本作メインキャストのひとり「たっきー先生」こと滝口幸広さんは、昨年若くして亡くなられた方である。あまりにも突然の出来事だったから、心の準備をしていたひとはおそらくいなかった。仕事で関わられていた方々もファンダムも重く沈んでいた。あの頃、誰かしらがずっと泣いていた。大変無責任な言い方になるが、愛されていたひとが世界の舞台袖へと去ったとき、その不在を埋めるように交わされる言葉の多さで、あいてしまった穴の大きさがまざまざと目に見えるようだと思った。

 

ぼくとしょリモートは分類として「リモート演劇」になるだろう。新型コロナ禍のなかで本格的に動き出した形式であるリモート演劇は、いまのところオンタイムで演じているものと収録した映像を流しているものとのどちらも存在している。いずれは定義が定まるかもしれないが、2020年6月初旬のいまにおいては「新録した映像を流す」タイプのものもリモート演劇の「上演」として捉える考え方がある、としておきたい。

役者の身体がそこになく、リアルタイムでさえない映像なのであれば、それは既存の映像作品とどのように差別化されるのか?それを演劇と呼ぶべきなのか?リモートドラマとリモート演劇はどのように違うのか?という疑問は当然のものであると思う。私もどちらかといえばそう思った。これをオンライン上映会ではなくリモート授業(≒上演)であるとするのは、「舞台作品」のシリーズに連なる新録作品があるか否かのみの違いではないのか?と。

しかし「僕等の図書室 リモート授業」はリモート演劇の上演と呼ぶべき作品である。構造の作り出した魔法は確かに舞台でなければなし得ないものだった。

 

まず前提として「リモート」の部分を紐解こう。

本作で選ばれた過去シリーズのすべてに滝口さんが出演なさっていること、「智恵子抄」はたっきー先生(滝口さん)が二度行った授業(演目)であることから、この構成に二種類の「リモート(遠隔)」が含まれていることがわかる。

新作映像は言うまでもなく「場所」のリモートだ。現在のリモート演劇における「リモート」は、三密を避ける・ソーシャルディスタンシングを厳守する、という意味から物理的な隔たりの話であることが多いと感じる。ぼくとしょリモートの新作映像も、キャストそれぞれが撮影した映像をつなぎ合わせ、セット背景をバックに映すことで作成されている。

他方、過去作映像は「時間」のリモートだ。かつて存在した、しかしいまは存在しない、それでもたしかにあった時間を「上映」ではなく「上演」することで、隔たった時間を2020年の舞台上に呼び出した。これによって、過去作品には新たな文脈が加わり、再上映ではなく再演に等しい再解釈が行われる。

 

ぼくとしょリモート1本目「まぁくんの走れメロス」は、歌パートと多少のコメディ要素を加えつつ、基本的なストーリーは原作の「走れメロス」とほぼ変わらない。メロスを演じる大山真志さんの歌声を活かしたテンポのいいコメディタッチの作品になっているが、終盤はほぼ原作通りとなり、くじけかけたメロスが再び立ち上がってセリヌンティウス井深克彦さん)のもとまで辿り着き、王(滝口幸広さん)を改心させる。そしてラスト、セリヌンティウスと改心した王と手を繋ぎながら朗々と「生きるって楽しい」「さあ僕を信じて」と歌い上げる。

2020年のいま、新作として観るその場面は、いまはもういない人の手をとってこれからも生きてゆくことを歌っている姿に映る。ぼくたちは大丈夫だと言うように。心配しなくていいから、信じて見ていてくれと言うように。

 

ぼくとしょリモート2本目「マッチ売りの少女原田」は打って変わって大胆な原作改変が行われている。原田優一さん演じるマッチ売りの少女の人生はあまりに波乱万丈だ。マッチを売って口を糊する貧しい少女は、自分を拾いまっとうではないにせよ生き抜くための技術を授けてくれたおじさまに恋をするが、おじさまは妻子持ちであり初恋は叶わない。妻からのいじめに耐えかねた少女は家を飛び出し、流れ着いた先でおじさまに似た男と暮らしはじめるが、男はヒモの上に浮気野郎で、不実の現場に遭遇してしまった少女は男と浮気相手を射殺する。長い時間を獄中で過ごし、ようやく出てきた外の世界で、彼女は自分を覚えていないおじさまを事故から庇い、程なくして路上で死ぬ。

不運と不幸にまみれた人生を、しかし彼女は彼岸と此岸の境で出会った少女に「本当に幸せだったね」と肯定される。「いろいろ体験できたじゃない」「つらかったり楽しかったり悲しかったり嬉しかったりたくさん味わったでしょう」と言われ、「そうかもしれないな」と頷いて彼女は少女ーーおそらくはかつての自分自身と手を繋ぎ、光のなかへ去っていく。

集まった人々はぼろぼろになって死んだ彼女を哀れむ。彼らは彼女の人生を何も知らないからだ。彼女の見た美しいものが、幸せが、光が確かにあったことを知らないからだ。かつて幻影のなかに見た、恋した人と結ばれて子を得る「普通の幸せ」の景色を、彼女は「ばかにしないで、こんな未来憧れてないわ!」と叫んで振り払った。孤独でも、愛をついに得ることはなくても、貧しくても、社会のどこにも居場所がなくなっても、命を賭けて救った初恋の人が自分のことをわかっていなくても、彼が自分の伝えた「ありがとう」という言葉の理由をわかっていなくても、彼女は自分の人生を愛した。楽しいことや嬉しいことだけではなく、つらいことも苦しいことも含めて、彼女は自分をつくるすべてを愛した。世界の誰もが知らなくても、彼女は、だから幸せだったのだ。

2020年のいま、新作として観るその場面は、けれど正反対のことを訴えてくるように聞こえる。

美しいものが、幸せが、光があったことは、語られない限り他人には分からない。マッチ売りの少女の語りを聴く客席は彼女が幸せだったと知っていても、作中でそれを聞いていない人々が彼女を不幸だと思ったように、語られないものは無いのと同じだ。

語ることが必要なのだ。美しいものはあったのだと語ることが。愛したものはたしかにあったのだと語ることが。幸せな時間はあったのだと語ることが。過去に囚われるためではなく、未来に伝えていくために。

だからどうか目撃して、見届けて、知って、語って、覚えていてくれ。そういう呼びかけのようだった。

 

人の死について、以前わたしはこのように書いた。

大学の同期が死んで五年になる。都会の街なかであきれるくらいたくさんの人がいるなかを歩いていると、その何千人何万人のなかに偶然彼女がいる可能性が、もうまったくないのだということに気づいて、いつも新鮮におどろく。(略)あんなにたくさん人がいても、でももう絶対にどこにもいない。誰ひとりとして絶対に彼女ではない。世の中に絶対ということはめったにないので、死んだ人間とは絶対に会えない、ということを思い出したときの、その「絶対」のあまりの強固さに、いつでもおどろく。

世界にかけられる額縁と遠近(クリスチャン・ボルタンスキー展「Life time」感想) - クレヨン、それからカレンダーより*1

人の死はこの世に数少ない「絶対」である。それでも、そのひとを思い出すとき、語るとき、そこにそのひとは現れる。語られるかぎり、記憶があるかぎり、光は消えない。

 

ぼくとしょリモート3本目、「たっきーの星の王子様」は1本目同様、ダイジェスト化やセリフの改変などはあるもののストーリー自体はほとんど原作通りである。滝口幸広さん演じる王子様は、自分の星に薔薇を残して旅に出る。そしてさまざまな星でいろいろなひとと出会い、地球にやってきてキツネと仲良くなった、それらの愛しい思い出を不時着した飛行士に語り、毒蛇に送られて肉体を脱ぎ捨て自分の星へ帰ってゆく。

先に述べたように、滝口さんは2019年の冬に亡くなられている。長い闘病の果てなどではなく、本当に突然の、予測しがたいことだった。だからこの「星の王子様」を滝口さんがかつて演じられたとき、そこに具体的な死の気配はなかったはずだ。しかしそれでも2020年のいま、この構成によって上演される「たっきーの星の王子様」には明確に特別な物語が乗っている。

 

少しぼくとしょから離れるが、「現代秀歌」(岩波新書)より歌人永田和宏の鑑賞を引用する。なお、対象である内藤明の歌は平成初期に架空の景を詠んだもので、不穏で寂しく美しい歌ではあるのだが、とある出来事を強烈に想起させる内容であるためここには引かない。

歌を読むことは、自分の経験の総量を動員しながら読み解こうとする作業である。自分が経験、体験したことは、意識する・しないにかかわらず、歌の読みに強い影響をおよぼさざるを得ない。(中略)内藤明のこの一首は、もちろん(とある出来事)以前に作られた一首であるが、(中略)(現実に似た出来事が起きたことを)知ってしまった私たちには、それを無視してこの一首を読むことができなくなっていることには、改めて気づくことになる。

(P198)

「経験の総量を動員しながら読み解こうとする」のは、短歌の鑑賞にかぎらず、人間が不要不急のなにかを愛するときに行われる知の営みすべてがそうであろうと思う。そうであってほしい、と思う。そうでなければ物語というものはあまりにもさみしい。ストリックランドにはなれなくとも、せめてストルーヴとなり、創作者が心のすべてをこめて手渡そうとしてくれる美に対し、懸命に手を伸ばし受け取ろうとすることをやめたくはない。

 

本題に戻ろう。ぼくとしょリモートの中の一本としての「たっきーの星の王子様」は、過去に演じられた作品のアーカイブでありながら、全く異なる作品として2020年の新作の顔を見せる。肉体を脱ぎ捨てて星へ帰っていく王子様を、肉体を脱ぎ捨てて「海外出張」に出かけたたっきー先生が演じていることは、王子様のことばに、そして王子様に語りかける三上真史さんのキツネや薔薇のことばに、違う意味を感じ取らせる。本来それが演じられた際には乗っていなかったはずの物語が、オンライン上で新しく演じられているに等しい。

その文脈の中でどのやりとりに心を惹かれるかはひとそれぞれだろう。私はキツネのもとを去ろうとするときのやりとりが一番好きだ。

別れぎわ、仲良くなったがゆえに王子様とキツネはさびしがる。泣きじゃくるキツネに「なんだよ、なかよくなってもなんも良いことなんてなかったじゃないか」と王子様は言うが、キツネは「いいことはあったっす、いろいろと」とちいさく笑い、薔薇の庭に行くことを勧める。「(星に残してきた王子様の薔薇が)世界にひとつだってことがわかるっすよ」。薔薇の庭に行った王子様には、以前と変わらない薔薇たちがまったく違うように見えている。それらは王子様にとっての「薔薇」、たったひとつの特別な「薔薇」ではないのだった。

「もちろん、おれの薔薇だって通りすがった人から見ればおまえらと変わらないだろう。でもおれにとってあの薔薇はおまえら全部よりも大事な存在なんだ!だっておれが水をあげたんだ、おれがガラスのカバーに入れてあげたんだ、おれが!風除けで!守ってあげたんだ!あいつはおれの、おれだけの、大事な大事な薔薇なんだ!」

そう叫ぶ王子様の言葉は、キツネが出会ったときに語った「仲良くなること」の効能そのものだ。「(仲良くなるまでは他の存在と変わらないけれど)仲良くなったらおたくにいてほしいと思うようになる。おたくはあたくしにとって世界に唯一の存在になるのです。仲良くなるのっていいっすよ」。王子様は薔薇と新たに言葉を交わしたわけではない。けれどキツネと「仲良くなる」ことを経験したために、薔薇への感情が再解釈されたのだった。わたしたち観客の知識が、この過去の映像に違う物語を付与するのと同じように。

何も知らない他者から見れば他のものと変わらなくても、愛したものは自分にとってかけがえのない特別な存在だと王子様は叫ぶ。ほかにどのような人がどのようにそれを見るのかは無関係で、見ている「私」の眼差しこそが愛によってそれを特別なものにする。それを見る主体がもつ経験が、知識が、感情が、愛が、特別なものとしてそれを捉える。似たようなものがたくさんあったとして、他者から見て代わりがきく何者かでしかないとして、でも自分が心を注いで愛したものはたったひとつ代わりがきかないのだ。愛されたもの、いまはもういないものが、「愛したものに代わりなどない」と叫ぶ舞台がオンラインに出現した瞬間だった。

 

「仲良くなったっていいことなかったじゃないか」「いいことはあったっす」というやりとりは、生きている限り死亡率100%のわたしたちが、それでも何かを愛する理由のシンプルな表現だ。

そして2020年のいま、その場面は人々に愛され、いまはもうどこにもいない死者が「仲良くなったっていいことなかったじゃないか」と愛に疑問を提示し、それに生者が「いいことはあった」と答えるものに変わっている。愛したがゆえに別れはつらく悲しく苦しい。それでも愛したことは間違いではなかった。いいことはあった。ずっと。舞台の上にいるのは役者と役者だが、その人を愛した者たちすべてがそう答える、此岸と彼岸の隔たりーー第三の「リモート」を飛び越えたやりとりのように映った。

ラストシーン、飛行士(木ノ本嶺浩さん)は王子様に教えられた通り、星を見るたびに彼を思い出すと語る。去ってしまったものを偲ぶ一連のセリフと、そのセリフを朗読している飛行士ではなくそのセリフの届かない場所へ帰ってしまった王子様が映されるカメラワークは、美しく物悲しい。

上演されているのは過去の作品の映像である。そこで演じられているものは一言一句変わらない。それでも再解釈により物語は新しく再演された。

 

ぼくとしょリモート4本目は新作である。過去に二度、滝口さんによって上演された演目である「智恵子抄」が、ぼくとしょの先生たちによって演じられる。リモート収録されたこの新作は、キャストそれぞれの映像をつなぎ合わせた作品だ。共演者でありながら、かれらはひとりとして同じ空間には立っていない。

そして新作はe+の告知とは異なる真タイトル、「ユキヒロの『智恵子抄』」を掲出する。出演者にも「滝口幸広」の名前がある。過去公演での「智恵子抄」の映像、「レモン哀歌」を朗読しているシーンが使われており、オールキャストの「レモン哀歌」朗読に参加する。

生者たちのひとりとして同じ空間に立ってはいないのなら、(そして収録が全員同時に行われたと言うことはないだろうから)ひとりとして同じ時間を共有しているわけではないのなら、過去に劇場で収録された「たっきー先生」の映像は、ほかのキャストのそれと何も変わらない。

この記事の最初に、わたしは「役者の身体がそこになく、リアルタイムでさえない映像なのであれば、それは既存の映像作品とどのように差別化されるのか?それを演劇と呼ぶべきなのか?リモートドラマとリモート演劇はどのように違うのか?」と書いた。わたし個人ではなく、おそらくリモート演劇というものに触れたひとすべてが持ったであろうその問いに、る・ひまわりは「役者の体がそこになく」「リアルタイムでさえない」からこそ、いまはもうそこにいないひととも舞台を作り出すことができるのだ、というこの上ない答えを出した。

この手法は、もともとが映像であるドラマでは作用しにくい。リアルタイム性や役者の身体を作品の成立要件として求めないからだ。死者の映像を用いたところで、それは死者の「出演」ではなく、「生きていた頃の映像」であると映るのではないか。

 

ぼくとしょリモートは、死者である滝口さんが生者であるほかのキャストたち全員と同じ板の上に立っているのを見せた。たっきー先生はほかの先生たちと同様、授業に「リモート参加」していた。

もうどこにもいない人が、すべてが映像で作り出される舞台という状況下において、そこに現れた。存在しないものをそこに生かす、舞台の魔法がかかったのを確かに見た。

なんという美しい作品だろうかと思った。

 

しかし、これは危うい魔法である。死者を起用するコンテンツは、扱いを誤れば感動ポルノに堕する危険がある。商業主義のもと、他者を踏みにじってでも金を儲けられればそれでよいという考えの人間が本作の見せた魔法を模倣すれば、それはおぞましい地獄を作り出してしまうだろう。いや、細心の注意を払って作ったとしても、観る人やのこされた人にとってはじゅうぶん暴力になり得る。だからこの手法を全面的に肯定することは断じてできない。*2

しかし、ぼくとしょリモートに限って述べるならば、これは死者の皮を掲げてひとの心をずたずたにし強制的に涙を搾り取るような冒瀆ではなく、もういちど愛したひとと芝居をやりたいという真摯な祈りの果てにあるものだと思った。

智恵子抄の授業中、「制作するものは、あるいは万人のためのものになることもあろう。けれども制作するものの心は、たったひとりに見てもらいたいことでいっぱいなのが常である」という部分を村井先生が朗読する。これがぼくとしょリモートの核ではないかと思った。ぼくとしょリモートは有料配信されたコンテンツである。だからこれは観客のために作られたものであるし、「万人のためになることもあろう」。けれども、この作品を見せたい相手は「たったひとり」なのではないか。その「たったひとり」へ向けられる愛があるかぎり、ぼくとしょリモートは倫理の薄氷を踏み抜くことはないと思う。

 

新作である「ユキヒロの『智恵子抄』」が終わった後、各先生たちから「海外出張中」のたっきー先生にあてたメッセージが流れる。「海外出張」が何であるかを知っている観客は、「大丈夫」だと笑うひと、「さびしい」と言うひと、「次に会ったら」といつかの日を語るひとの言葉ひとつひとつに、この舞台を作り上げた祈りを見る。「いまはもういない彼を愛したものたち」という文脈を観客と共有したいという、制作側の祈りを見る。*3

 

「いつかまたいっしょに芝居がしたい」という先生たちのメッセージは、板の上で生きている人たちの最大級の愛であろう。そして望むようには叶わない祈りである。

だからいち舞台ファンがこう言い切るのはあまりにも粗暴で野卑なことだけれど、それでも書いておきたい。

リモート授業に「たっきー先生」がいたのを私は見た。リモート演劇がこのうえなく演劇であった歴史的な作品にいたのを見た。時間と空間を飛び超え、彼岸と此岸の遠きを超え、生と死の理を覆して、2020年の舞台に出演していたのを、確かに見た。

 

この記事をどう締めていいかわからないので、もともと好きな詩集である智恵子抄を引用して終わろうと思う。一番好きな詩の、一番好きなところだ。もういなくなってしまったひと、これからいなくなってしまうひとのことを考えるとき、私はいつもこの四行をくちずさむ。

あなたはまだゐる其処にゐる

あなたは万物となつて私に満ちる

 

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど

あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

智恵子抄「亡き人に」より)

*1:さまざまな死についてが描かれた展示であったので、さまざまな死に思いを馳せた文章を書いた。この引用は「心臓音のアーカイブ」についての感想からすこしはみだした部分である

*2:仮に本作がオンタイムで複数回公演されるものであったなら、私は舞台のオタクのはしくれとして許容できない。まだ半年しか経っていない。死者を語るにはあまりにも近すぎる。個人が自由意志に拠って語ることと、仕事として語ることとは違う。

*3:6/8追記:ぼくとしょリモートの感想の中で、る・ひまわりとキャストとファンとが築いてきた信頼関係について語る方をたくさん拝見した。滝口さんが愛されていたことがファンからみて明らかだったからこそ、この作品を純粋に愛として受け止められると。

だから最終行は「文脈を観客と共有できるはずだ、という制作側の信頼」と書くべきだろう。送り出した愛のすべてを手を伸ばし受け取ろうとしてくれる存在である、と制作側が客席を信じて身を任せるように作られた作品であるのだろう。そんなにも観客に信頼される制作と、制作に信頼される観客との関係があることはなんと美しいのだろうか。

る・ひまわり作品の履修が甘い私の視界からこれを語ることは不誠実である。だから迷ったけれど、語られたたくさんの愛についてどうしてもこの記事に残したく、追記した