クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

簡易な感想群、疫病のある日常

ぼんやりとデスミュの感想を書いたり消したりして過ごしている。

めちゃくちゃによかった。よすぎてキャパシティをオーバーしている。観た初回、あまりに良い舞台だったので興奮しすぎて上の空になり帰りの階段を2段ほど踏み外して落ちた。あまりにも漫画のようだったので自分で自分にウケたが、一緒にいた友人には引かれた。引きながら怪我を心配してくれた。

この友人は前にわたしがiPhoneを落として割った際、あまりにも見事な割れ方だったのがツボってゲラゲラ笑いながら「記念撮影して!!」と頼んだ時も引いていた。引きながらも記念撮影はしてくれた。いいやつなのだ。

 

デスミュの感想を書いていると、夜神月は殺人者なので肯定してはならないがいやでもだって夜神月くんはめちゃくちゃに心優しい普通の青年だったのにどうしてあんな死に方をしなくてはならなかったんだ…と自分の中で争いがある。もともとは「死んだのはつらいが自業自得ではある…」くらいのラインを取っていたのだが、東京公演村井楽のカテコがあまりにも物凄かったのでそれまで書いていた感想はぜんぶゴミ箱に捨てた。

演者からの挨拶はなく、ただカテコで出てくるたびにL役・高橋颯さんとハグしたり、袖で振り向いてお互いに礼をし合ったり、夜神総一郎役・今井清隆さんと高橋颯さんに挟まれて手を繋いでいたり、アンサンブルの方々に拍手と笑顔を向けられながら去って行ったりしていた(なんとなくだが、たぶん演者側の想定より1〜2回くらい多めに出てきてくださったのではないか)。そこには愛があって、笑顔に満ちていて、世界は輝いていた。

自分は元からわりと舞台上のキャラクターに心を寄せるタイプの見方をしていると思っていたのだけれど、それを見て、「ああ、ライトくんが辿り着きたかったのはここだったんだな(そしてそうはならなかったのだ)」と思い、そこではじめて自分の中で夜神月というキャラクターからライトくんというひとりの青年になったような感覚があった。「あの最期は悲しいが仕方ない」から「あの最期は仕方ないが悲しい」に感情の順序がかわり、一気にしんどさが膨れあがった。

 

という視点を得たあとで地方公演を観るのをとても楽しみにしていたのだが、結局のところ東京村井楽がわたしの観た最後のデスミュになり、仕方ないこととはいえたいへん残念だ。それに甲斐ライト回を地方で取っていたので観ずに終わってしまったのも痛手だ。比較がしたかったな…。なんとなく原作ライトに近いのは甲斐さんの方なのかなという雰囲気を感じていたので、舞台の独自路線が強いように思った村井さんの演技と比較して、「現代劇としてのデスミュ」に関する考えをもう少し深めたかった…。

地方公演を観てから詰めて感想を足そうと呑気に考えていた部分を足らないメモと不完全な記憶をもとに足すことになるが、できるかぎり自分の納得がいくように書こう。

 

デスミュパンフの通販時、村井さんの未入手分と一緒に高橋さん単品のものも買ってしまった。高橋さんの演技がとてもよかった…課金したい…という気持ちのやり場がそこしかなかった。とてもよいお写真であるが推し以外のブロマイドをどこにどう保管しようかという悩みもできた。村井さんのデスミュ写真の近くでいいか。

石田衣良の昔の短編で「大人になってよかったことのひとつはこうして応援の気持ちをお金で示せることだ」みたいな一節があり(本好きの主人公が本を買うシーンだった)、なにかにポジティブな気持ちで金を払うときよく思い出す。

若い頃よく読んだが最近あまり読まなくなってしまった作家の作品に、今でもこういうふうに思い出すフレーズがあると、あのころに読んでいてよかったなと思う。今読んでこういうふうに心のどこかに残るかはわからない。適切な時期に適切な本を読んだのだろう。まあ忘れっぽいので読んだことも覚えてない本のほうがたくさんあるんだろうな(覚えていないので例示はできないが)とも思う。

 

世の中がたいへんなことになっていて、日々明るいニュースがないまま暮らしていると気が滅入る。報道を見ねばならないが見るとストレスになる。戦力の逐次投入がよい結果をもたらしたいくさが果たして歴史にどれだけあるだろうかと思う。

遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし

あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ

(ともに土岐善麿

どちらも終戦を詠んだ歌だがこの頃よく心に浮かぶ。「遺棄死体〜」は好きな歌でなにかあるごとに思い出すのだが、この頃は「あなたは勝つものと〜」のほうがなんとはなしに浮かぶ。いままでは、これは戦意高揚のために芸術を用いた人間の自省を妻の言葉というかたちでこめた歌だと思っていた(作者の意図や文学史のなかの立ち位置からそう遠くはない取り方だろうとも思う)。

しかしいまの世界情勢のなかでこの歌を見るとき、渦中にある者たちの心は「勝つものとおもつてゐた」か否かの二択ではないのではという気がしてくる。勝つことも、それどころかこの日々が終わることも信じきれず、しかし勝つものと思っていなくては生きてゆく気力を失くしてしまうから、勝つことだけを言葉にし人事を尽くす。そういった連帯によって生き残ったものたちが、心を挫かないようにと胸に秘めていた本当のところをようやく口に出せるようになった安堵と言い知れぬ疲弊を感じる。

疫病によって終戦の歌をこんなふうに身にしみる気持ちで口ずさむ日が来るとは人生わからないものである。いつ終わるかわからない世界レベルの非常事態におけるじわじわとしたつらさを肌身で感じる良い機会であると思うことにする。事態の終息前に自然災害の起きぬことを祈るばかりである。

 

世界が疲弊していて、懸命に戦う人たちの連帯を尊く思うと同時に、あのキラ・コーラスが聞こえるようで恐ろしく感じる。あまりに民意を汲んだ法案をぶちあげている政党を見て、平時は「絵に描いた餅で人気取りにいっとるな、どうやって実現するのだそれを」と思うところだが、「実現させられるならなんとかやってくれ」と思ってしまった。

いまカリスマ性があり迅速で果断な(おそらくは見目の麗しい)人間が華やかに登場したら、それは歴史から見てどう考えても危険なのだが、その魅力に抗い切れるだろうかと思う。デスミュ2020を観ていながらわたしはキラ・コーラスに加わる一人になるのかも知れないと思うと恐ろしさがある。

 

チケットをいくつか払い戻した。デスミュの大阪福岡とアナスタシア東京。RENT来日公演はまだアナウンスがない。振替公演の案内と同時に出したかったのだろうがこの状況では振替公演も調整しがたいだろう。高校の後輩(小劇団の役者)が「入ってた仕事がどんどん飛ぶ」と言っていてつらい。別の後輩の夫も確か舞台系の仕事だったと思うので心配である。

秋口の日本版RENTも楽しみにしているが、ユナクさんがCOVID-19罹患との報でつらい。わぁ平間マーク!上口エンジェル!加藤コリンズと光永コリンズがWだとヒャッホー!!とキャスト発表見てわくわくしていたのでぜひあのキャストで幕が上がってほしい。

ほんと全員快癒してほしい。全員つったら全員だよ全世界だよ。

 

テレワーク不可能な作業がある仕事なので仕方なしに出社している。

電車が空いていたのが4/1だけ急に混み、4/2からはまた空いた。3/31までの自宅待機指示が解けたり入社式に出たりする人がいたのだろう。おもしろい。おもしろがっている場合ではないがおもしろがるくらいしか元気の出しようがない。

 

リディア・ディヴィス「ほとんど記憶のない女」を読んだ。気候のせいで頭痛がして集中力が保たないので短編集を読もうと思ってのチョイスだったが、頭痛がするときに読むものとしてこんなに適切じゃない選択があるか。

短編というよりは他人の夢を見ているような、それでいて自分の記憶とどこか符合する、掴みどころのない作品が51篇収められている。

文章は装飾的でなく、むしろなにかの説明書のように簡明だ。

近所に毎朝のように真っ青な顔でコートをなびかせ家から飛び出してくる女がいる。女は叫ぶ、「助けて! 助けて!」すると誰かが走っていって彼女の恐怖がおさまるまでしっかりと抱きとめてやる。私たちはみな女の言うことが作り話で、本当は何も起こっていないことを知っている。それでも私たちは彼女を許す。(P143「恐怖」)

失われたいろいろなものたち、でも本当に失くなったのではなく、世界のどこかに今もある。(中略)それらは私からも私のいる場所からも失われてしまったけれど、消えてしまったわけではない。(P158「失われたものたち」)

ほとんどの作品が引用箇所のように、要約して人に話すことができないほど簡潔な文章で、具体的な存在を示しながら、その中心に掴みどころのない概念や感覚を据えている。どんなにうまく要約したところで、要約した途端に抜け落ちてしまう何かが含まれていて、良さを感じるには読むしかない本だと思う。

一番好きなのが「混乱の実例」という作品で、ほとんどは10行以内の短い文章が15個並べられたものだ。ひとつとしてその通りの状態を経験したことはないが、すべてが自分のかつて抱いた感覚として脳から直接引きずり出されて言葉になっているようで、こういうものを読むと興奮する。

私はニンジンをかじりながら詩人の書いた文章を読む。すると、たしかにその一行を読んだはずなのに、(略)どうしても"読んだ"という感じがしない。それは"理解した"感じがしないというか、むしろ"食べた"感じがしない、というのに近い。先にニンジンをかじっていたので、もうその行は食べられなかったのだ。ニンジンも一行の詩だった。(P190-191「混乱の実例」7)

一番好きなのがこの7で、ああ!ある!あるな!この感覚ある!!と興奮したし、それを「ニンジンも一行の詩だった」と言うのが簡潔でクールだ。最高。

 

大学生のとき、文学の授業で「この○○はなにを意味するか」という問いを学生同士でディスカッションし、しかし答えは「これはべつに○○じゃなくていいんですよ、任意のなにを入れようが問題ではなくて、ここに『ある』ことがその意味なんです」というもので、頭の悪い学生だったため当時は全然意味がわからなかった。卒業後だんだん頭の出来がマシになり(学生のうちにマシになりたかった)、今ならわかる。この文章で食べているのがニンジンであることにも、読んでいるものが詩であることにも意味はない。当時わかればもっとよかったろうが、いまわかるようになっているので、まあいいかと思う。

 

要約が意味を成さないタイプの話が好きで(だから不条理小説が好きなのかもしれない)、それは作品のあらすじを知ることとその作品を読むこととはまったく関係ない別個のものだということを突きつけられるからだ。ファンタージェンで育ったので、作品を読み物語を経験することでしかそのものを知ることはできないと思っている(これは感情移入の話ではなく、読みながら自分がその作品をどう感じ、どう受け取り、どう解釈し、どう考え、どう血肉とするか、という話だ)。あらすじを長大な作品を読むときのマイルストーンとしたり、not for meな作品であるかどうかを事前に判断したりするのに使うのはいいが、知った気になるのは勿体ないことだ。あらすじからは作品のことを知ることはできても物語を知ることはできない。

 

好きなものの話をするとすこし気分がよくなる。好きなものの話をまたしようと思う。