クレヨン、それからカレンダー

チラシの裏よりすこしひろい

確信犯による無差別殺人は「個」と「全」どちらの罪なのか(舞台「あの出来事」感想)

舞台「あの出来事」(2019、新国立小劇場)を観に行った。2011年にノルウェーウトヤ島で起きた極右青年による銃乱射事件を題材にとる作品だが、作品は舞台やシチュエーションを移し完全なフィクションになっている。

以下は実際の事件ではなく、舞台作品の内容およびそれに対する感想を記述する。

 

青年は愛国心から、移民やマイノリティ、社会的弱者が集まる合唱団を「国を乗っとるものたち」として敵視し、無差別に殺害する。多文化主義の実践として合唱団の指導者を務める女性牧師はその惨禍を生き延びたのち、「肉体から離れてしまった気がする」と語る自らの魂を回復させるため、青年について、事件について、理解するためにさまざまな関係者に話を聞き、最終的には収監された青年に会いにゆく物語だ。特徴的なのが、女性牧師・クレア以外のほぼ全てを犯人の青年を演じる役者が衣装を変えずに演じ分ける二人芝居に近いものだということだろう(なぜ「ほぼ全て」「近いもの」なのかというと、舞台上には彼ら以外に合唱団がいるのだ。これについては後述する)。「クレアにとって事件は終わっておらず、だからあらゆる関係者の顔が犯人の青年に見える」という意図のもとの演出であるそうだ。青年役・小久保寿人さんはインタビューにて「誰もが青年になりうることの表現でもあると思う」と語っており、私はそちらのほうがよりしっくりきた。この作品の「青年」は、自らを「正しい」人間だと思っており、銃乱射も「良かれと思って」やっている。そう聞いて思い出せる事件は大量殺人に限っても悲しいくらいにたくさんある。ましてや数人を殺傷する程度のものであれば記憶することさえ難しい。時折ドキュメンタリーや裁判の経過を見て、ああそんなひどい事件があった、と思い出す程度で、すぐに新しい悲劇が上書きされてゆく。

殺人や傷害ではなくとも、「正しい」と思い「良かれと思って」他人を傷つけることは、確認するのもバカらしいくらい世の中にありふれている。悪意によってのみ人は攻撃的になるのではなく、むしろ善意に基づいた行動を起こすときこそ自己反省を欠き危うくなる。誰もが「青年」になりうる。

 

この戯曲には「クレア以外の役を青年役が演じること」以外にもうひとつ特徴的な指示がある。「上演する土地の合唱団を舞台上にあげること」だ。合唱団はクレアの指導にかかる「合唱団」役として歌うだけではなく、いくつかの場面では台詞を言い、芝居に参加する。たとえば事件を起こした青年へのインタビュアーとして、たとえばクレアと同じ悲劇のサバイバーとして。「ギリシア悲劇のコロス形式を用い、合唱団(=演技の素人)を舞台に上げることで、観客たちをそこに立たせる」効果のためと解説されていたが、コロス形式の効果については正直なところ私にはわからなかった。複数人が口々に問を投げかけるインタビュアー役には良さを感じたが、サバイバーである合唱団員がクレアに別れを告げる場面は他と同様に青年役の役者によって演じられた方がいいのではないのか…と思った。演技の良し悪しではなく、「同じ悲劇に直面したサバイバーでさえ犯人の青年=加害者に見える」ほうがクレアの身の置きどころのない孤独さに即しているのではないのだろうかと思った。しかしこれは「青年に見えない=被害者という自分と同じ立場(という表現で良いかは不明だが)であるはずの合唱団員にさえその回復手段を拒絶される」ことの表現であろうから、こちらの方が作品の示すところとしてはより良いものなのだろう。

 

クレアが魂を回復しようと歩む道は決して美しいものではない。犯人の父親、犯人が傾倒していた本の作者(ジャーナリスト)、カウンセラー、牧師、恋人(クレアは同性愛者のため、パートナーは女性であり、これも青年が演じる)などさまざまな人との会話の中で、クレアは嵐のように不安定であり、そして彼女もまた人を傷つける。実際、作者であるデイヴィッド・グレッグは「知りたいという欲求は、ある意味破壊的である」というテーマをこめてこの戯曲を書いたという。

 

 

以下は作品の内容に触れる。ラストで何かがひっくり返るような作品ではなく、おおよそあらすじ通りの物語だが、それはそれとしてネタバレである。なお1回しか観ていない上に戯曲を入手できていないので(物販になかったような…)、けっこううろ覚えである。

いちおう断りを入れておくが、本稿は私の主観によるいち解釈であり、「私個人が劇場で観たもの」についての記録のようなものである。

 

 

まずは作品を「被害者」と「加害者」という視点から見ていきたい。

主人公であるクレアはテロ事件の被害者である。しかし、作中の彼女は決してかよわき無辜のものではなく、むしろ加害者的な面のほうが目立っている。

たとえば、彼女は身勝手な理由で事件とはなんの関係もないスーパーでチョコレートバーを万引きし、セラピストにふてくされた態度を取る(凄惨な事件によるPTSDを抱えているためか、警察ではなくセラピストが対応し、優しく辛抱強く「どうしてそんなことをしたのか」と問いかけ諭す。しかしその最中にもクレアは事件について勝手に語り出す)。

また、見知らぬ他人だけではなくもっとも親しい存在であるパートナーをも彼女は傷つける。事件を追い続け消耗するクレアを愛し支えるパートナーへの感謝は見られない。それどころか、魂を失いもがいているクレアの苦しみに寄り添おうとした彼女は拒絶され、どこまでも一方的に要求をつきつけられる。限界に達したパートナーとクレアは取っ組み合いの喧嘩に発展する。正確には出ていこうとするパートナーをクレアが一方的に突き飛ばし、押し倒し、強引にくちづけてうやむやにしようとする。この場面は「女性の役者(クレア)が男性の役者(パートナー)に対して暴力を振るっている」からこそ、却ってその行為がいかに倫理を欠いた加害的な振る舞いであるかが純粋に提示されるように感じる。男女が逆、あるいは双方が女性であったなら、その見た目によってどうしても別の意味合いが乗ってしまう気がする。決して華奢ではない男性が、吹き荒ぶ嵐の如き暴力にあらん限りの力で抵抗し、ねじ伏せられてしまう女性を演じるからこそ、クレアの持つ加害性と狂気じみた面が際立っていた。 

 

クレアは自らの魂を取り戻すための探求のなかで他者に加害するが、それは直接的な犯罪(万引き)や暴力に限らない。「話をきく」「歌をうたう」のような一見平和的なものもある。

犯人の父親は、話を聞きにきたクレアに対し「あんたはいいよな、『被害者』だ。みんな親切にしてくれる。俺に対して世間はひどいもんさ」と語る。子が幼いうちに離婚し、青年が15歳のときに母が亡くなってからも「一度も家に行ったことがない」という父親の言葉は、被害者に対してひどく身勝手ではある。しかしその一方で、その人生にほとんど関わっていない息子の突然起こした凶行について、彼はクレアのように他人に聞き回って知ることもできない。彼はその凶行について、なぜ起きたのか知っていなくてはならない立場……「父親」だからだ。回復の道を閉ざされている彼に、質問を重ねるクレアの姿は一種暴力的である。

またクレアは事件後、生き残った合唱団を再び指導し始めるが、それは以前のように明るいポップスや唱歌ではなく、アボリジニやシャーマンの祈祷を取り入れた儀式めいたものになっている。大地とつながり、命を回復させるそれらの儀式を、クレアは「良かれと思って」みなに指導するが、合唱団は「みんなのためにやってくれているのはわかるけれど、私たちはこういう暗いことばかりやるのはつらい。明るいポップスなんかを歌いたくて合唱団に入ったのだから。事件のことばかり考えたくないの。もうみんな合唱団をやめるつもりです。今まで指導してくれてありがとう」とクレアの元を去ってゆく。クレアの魂を回復させようと模索する行動は、同じ事件のサバイバーに寄り添うどころか逆に傷つけるものである。

クレアの探求が加害的であるともっとも端的に示されるのは、先にも触れたパートナーと諍うシーンだろう。刑務所の近くへ引っ越そうとし、パートナーにも「(どこでもできる仕事なのだから)一緒に来て、いいでしょう?」と、それを叶えてもらうことが当然の権利であるかのように要求する。事件に囚われ続けるクレアを辛抱強く支えてきたパートナーはここで限界に達し、出て行こうとする。クレアはそれを妨害し、「だめよ、キスして」などと強引な仲直りを(形だけであっても)求め、突き飛ばしさえする。出ていかせて、と繰り返すパートナーに、クレアは「私は被害者なの!これ以上傷つけないで!」と叫ぶ。

「私は被害者なの」。クレアのこの鈍器のような言葉は作品の核となるものだと私は思う。

クレアは凄惨な事件の被害者である。そしてその被害者としての立場は複雑である。

事件は合唱団の練習中に起きた。突然入ってきた青年を、クレアも合唱団もふらっと見学にやってきた新規入団希望者だと思い、明るく迎える。しかし青年は「この島の者は去れ」と言いながら銃を取り出し、混乱する合唱団の中から一人を選んで撃つ。惨劇が始まる。

クレアは責任者として合唱団を守らなくてはならなかったにも関わらず、パニックの中適切な判断を下せなかった。最初に一人撃たれてからようやく、しかし何の意味もない「みんな逃げて」という指示を出すことしかできなかった。そして音楽室に逃げ込みドアを閉めるが、彼女はそこでまた迷う。「外に出なくてはいけない。外で逃げ惑っているみんなをここに避難させなくては…」銃を持った青年がうろついている部屋の外へ踏み出そうとしたとき、同じ部屋に先に逃げ込んでいた合唱団員(名前が「シンさん」なのでおそらくは中華系の移民で、つまり青年の殺戮のターゲットだ)が震えているのを目にし、彼女の勇気はくじける。団員を抱きしめ、「一緒にいましょう、ここで隠れていましょう」と寄り添う。やがて青年が音楽室に入ってきて、隠れている二人を見つけ、銃を突きつけながら「弾は一発、おまえたちは二人。どっちを撃って欲しい?」という残酷な二択を発する。どうなったかについては、この物語の主人公がクレアであることからわかるだろう。

 

事件の中、クレアは幾度も迷い、判断を遅らせ、あるいは誤った。しかし彼女は軍事訓練を受けたわけでも、いつ無差別殺人に巻き込まれるか分からない戦闘地域やスラム街に暮らしていたわけでもない。日常が突然壊れたとき、「瞬時に」「正しく」判断し行動できる人間が一体どれだけいるだろうか。私は誤らないだろうか?否だ、おそらくクレアよりも悪い判断しかできないだろう。

それでも、悲劇に遭遇したひとは、「もしも」を心から追い出すことはできない。もしも最初に考えた通り音楽室に全員を避難させていたら?まとめて殺されていただけかもしれないが、合唱団員たちを「救おうとした」という行動はクレアの心を、そして(作中には出てこないが)遺族の心をいくらか慰めたかもしれない。できるだけのことはやったのだと自分を納得させられたかもしれない。

実際には、クレアは団員ひとりと音楽室に隠れ、他の場所に逃げた団員たちを見殺しにした。極限状況下において、目の前に震えている人間がいたとき、どんなに正しい行動であっても「放っていく」という選択はおそらく不可能だ。しかし、事実だけを見れば、クレアは誰も守れなかった。

彼女は何もしなかった。何も救えなかった。責任者なのに。

そう捉えたとき、被害者遺族にとってクレアの生存は理不尽であろう。自分の子を、親を、兄弟姉妹を、友人を、恋人を見捨てて生き残った女のように見えるだろう。理性では彼女が被害者であることをわかっていても、人間には感情がある。的外れであっても、人を憎む心はどうしようもない。

作中では描かれないが、クレアが事件に囚われつづけるのは、別の「被害者」たちの視線が、「自分は団員を見殺しにしたのではないか」という内在する疑問が、彼女に忘れることを許さないからではないだろうか。「私は被害者なの」と叫んだクレアは、自分が純粋な被害者ではないと無意識に感じているからこそ、そう言ったのではないか。ただの被害者であれば忘れることも許されよう。しかし加害者性がそこにある(と本人が思う)のなら、ただ時間に頼って忘れることは罪であり、魂の回復プロセスにもなりえない。事件を理解し、自分があの出来事において一体何者であるかを暴き、自らの負うべき罪とそうでないものを弁別しなくては、彼女は立ち上がれない。だから彼女はどんなに他人を傷つけても、事件を、青年を、自分を、あの出来事を知らなくてはならない。

 

「被害者」は、他人を無制限に傷つけることを許される免罪符ではない。そんなことはクレアもきっとわかっている。それでも彼女はその道しか進めない。彼女が魂を取り戻すことを諦めたとき、彼女は自分が罪人であるか否かの判断を放棄することになる。それは共に過ごし、唐突に失われた仲間たちの魂に背を向けることと同じだ。

 

 

「あの出来事」は、「ことぜん」(=個と全)をテーマにした上演3作品の2作目にあたる。そのテーマからも作品を捉えたい。この作品でまず注目すべきは「全」の希薄さ、言い換えるなら徹底した「個」の描かれ方ではないだろうか。

作品の中心となる銃乱射事件は、多文化主義に対するテロという「全」への攻撃、悲劇である。しかし、その描かれ方は「個」からの視点に徹底されている。「全」である社会への影響について、作品中では直接的には描かれない。現実世界では2019年現在でもまだ深刻な影響を残す事件を、社会がどのように受け止め、乗り越えようとしているかについて、作家は(おそらく故意に)描いていない。事件を追い続けるクレアを通して、サバイバー本人、関係者、それに関わる周囲の人たち、そして犯人の青年という、それぞれの「個」にとって「あの出来事」が一体何だったのかが描かれている。

 

個と全というフレーズを見て、先日見たクリスチャン・ボルタンスキー展の作品を思い出した。感想の該当箇所を引用する。

「保存室(カナダ)」はたくさんの古着が吊るされた作品だった。さまざまな服があり、そのさまざまな服はかつて着られていたが、その服たちはもう着られることはなく、いわば服の死体である。 服たちは新品ではなく古着であるから、それらを着ていたひとたちと着られていた服たちには人生があった。そしてそれらはもうどこにもない。 そういう不在が服の数だけそこにあった。 よく考えればあくまで古着というだけで、べつに死んだひとのものだという明示的な説明はなかったと思うのだけれど、そんなことを考えながら見た。

「ぼた山」もそれに似た作品で、黒い服がうず高く山のように積み上げられている。ただしカラフルで一枚一枚がくっきりと分かれていた「保存室」に対し、「ぼた山」は黒一色なので(ボタンなども真っ黒で沈んでいる)、近づいてよく見ないとただのひとかたまりの山に見える。同じ服の死体であっても、「ぼた山」は個ではなく死の集合体に見えた。直近まで読んでいた本の影響で、特定の事象によって発生した死体の山のように感じた。弔うこともできないまま堆く積み上げられた、個を失った悲劇の総体のように思った。

「ぼた山」を見たときの私は、大量殺人やテロ攻撃、事故、災害などにおける多数の死者を想起したのだった。死は、そして生は、間違いなく個人のものである。しかし数字として捉えたとき、その死は遠くから見る「ぼた山」のようにひとかたまりとして見える。個々の悲劇であることは、引きで見たとき、認識はしていても実感はし難い。そのかたまりとしての存在感のほうがどうしても勝ってしまう。

「あの出来事」は、「ぼた山」を一枚ずつの洋服に分けて並べていくような舞台だった。どんなに大きな全としての出来事も、そこには必ず個それぞれの出来事が集まっている、そういう現象の本質に対して誠実であろうとする作品だった。

 

話を舞台に戻そう。「被害者と加害者」の視点から見た際には、もう一人の主役、加害者である青年について触れなかった。被害者であるクレアが加害者性を持っていたのとちょうど反対に、彼はある意味において被害者性をもっているが、それは「個と全」の視点を踏まえたほうがまだ理解しやすいと思ったからだ。

青年はクレアと対面するシーンまでは怪物のように振る舞う。凶行後のインタビューには不遜な態度で臨み(このシーンで「童貞?」という質問に「ノー」と答えていることから、彼はいわゆるインセルではなくあくまでも愛国者であることが提示される)、事件のシーンでは興奮と平静の入り混じる口調で自分の犯行を俯瞰する。青年は「銃乱射事件を起こそうとしている人に言っておきたい、あなたは最中に絶対こう思うーーなんだこれは?馬鹿げてる!とね」と独白したのち、人々を殺戮していく。国と社会を損なうもの・侵略者としての移民たちに対して、愛国者である彼の攻撃は容赦なく行われる。犯人としての青年が見せる異様なエネルギーに満ちた振る舞いは、猛々しい虎を想起させる。

しかし終盤、面会にきたクレアと対面した青年は落ち着いていて適度に気さくな、どこにでもいそうな男だ(脱線するが、この場面、青年役・小久保寿人さんの力の抜き方がとてもうまい。さまざまな役を演じ分ける必要がある今作で、特に上手さが際立っていたのはこの面会時の青年と、セラピストなどいくつかの「穏やかな男性」役との演じ分けであったと思う。どの役も比較的落ち着いていて穏やかに話すのだが、セラピストたちにはクレアに対する緊張感がある。青年にはそれが見られない。おおげさに身振りや抑揚が変わるわけではないが、青年のなにげない挙措からそれが伝わる)。クレアがサバイバーだと知っていて、青年は攻撃的になるわけでも露悪的になるわけでも反省した態度をとるわけでもなく、共通の話題をもつ友人の友人、くらいの距離感でクレアに接する。「来てくれてありがとう。あなたと会うのはいいことだとセラピストが言っていました。自分がやったことについて理解する助けになると」と、なんの他意もない素直さで青年は礼を言う。面会室には青年とクレアしかいない。分厚いガラス越しに区切られた部屋ではなく、ひとつの室内に被害者と加害者が座っている。その状況下で、青年は「お茶、よかったらどうぞ。僕は淹れてはいけないことになっているので、飲みたかったら自分で」と親切に給湯スペースまで指し示す。目の前の女が復讐者であることなど一切想定していなさそうな軽やかさだ。

面会中、クレアは銃を突きつけて二択を迫ってきたことを覚えているかと聞き、青年は本当に不思議そうに「覚えてないな。そんなこと言ったんだ」と答える。ものすごく好きな会話だ。彼が殺したいほど憎いのは「移民」や「多文化主義」といった「全」なのであり、それを構成する「シンさん」や「クレア」といった「個」に対しての敵意はないのだ。だから「クレア」に対しても警戒心がないことにも頷ける。彼の中で、あくまでも加害したのは「全」であり、それは「クレア」という事件のサバイバーとはまったく無関係だ。

「個と全」という視点から青年を見たとき、彼は一貫して「全」しか見ていない男だし、事件はとっくに終わったものという認識なのだということが、このシーンで明かされる。あくまでも「個」の経験として事件を追い続けたクレアとは対照的だ。そして同時に、「個」が「全」を構成しているという視点が欠けている(または確信犯的*1に無視している)青年は、その「個」としては全く恨みのない人間を「全」の一部として殺害したことに対して反省や後悔などしようがないのだということが分かる。

 

ここで重要なのは、青年は決して他人の痛みや人の死を理解しないモンスターではない、ということだ。

愛国心がすべて危険で否定されるべきものだとも、多文化主義が無条件に良いものだとも思わない。しかし思想の左右を問わず、それを無辜の文民への加害を許す根拠にしてはならないと私は思う。おそらく青年もこれに同意するだろう。ただし、彼の認識において「無辜の文民」に移民は含まれない。国を愛し、単一民族による国家の同一性保持を望む極右思想の青年にとって、移民は敵であり、多文化主義は悪である。国を守るため、侵入してきた敵を殺しただけなのだから、自分は殺人者だが罪人ではない。敵は殺してもいい。だから反省することはない。自分がなにを為したかはきちんと知っている。そういう考え方だろう。その考え方が否定されない環境に青年はいたのだろう。それは一種の被害者だ。

「敵は殺してもいい」が過激すぎて首肯しかねるのであれば、こう言い換えよう。「悪は正義によって倒されるべきだ」。その種の考え方を一度もしたことのない人間はおそらくいない。そして「悪は正義によって倒されるべきだ」と考えるとき、ほとんどの場合、自分は「悪」の側にはいない。それはそうだろう。社会的にどう受け止められるかは別として、「間違っている」と思うものを信じることは難しい。

私が正しいと信じて疑わないことも、誰かにとってはあきらかに間違っている。絶対にだ*2。そう考えたとき、青年と私の違いはどこにあるのかわからなくなる。「誰もが青年になりうる」という言葉が重くのしかかる。

 

クライマックスでクレアは青年に茶を注いでやり、そのカップに毒を盛るが、何も知らない青年がそれを飲もうとしたとき、寸前でその手を払い除けて茶をこぼさせる。青年は驚き、不思議そうに「どうしてそんなことしたの?」ときくが、クレアは身を伏せたまま顔を上げず、何も答えない。彼女は青年という「個」ではなく、彼の所属する「全」こそが銃の引き金を引いた存在なのだと、彼との対面の中で理解してしまったのだろう。ここで青年という「個」を殺すことは、多文化主義という「全」への攻撃のために罪のない「個」を殺害した青年と変わりない、野蛮で無意味な暴力なのだと。

「復讐は何も生まない」というフレーズは、復讐者を止めるためによく使われるが、この場面ではサバイバー本人が犯人に対する復讐が何も生まないことを理解してしまっている。個人を殺害したところで、彼を生んだ「全」が存在する限り、次の「青年」がまた銃を提げてやってくるだけだ(誰もが「青年」になりうるのだから)。そこからはなにも生まれない。生むとすれば果てのない憎しみと死体だけだ。目の前の青年は殺したいほど憎い、けれど殺すことに意味はないと理解してしまったいま、殺したところでこの憎しみは癒えるだろうか。魂は取り戻せるのだろうか。「あの出来事」は終わるのだろうか?感情と理性のあいだで迷いながら、ギリギリのタイミングで突き動かされるように青年を殺さないことを選択したクレアは、「どうしてそんなことしたの?」という問いかけへの答えをもたない。

サン=テグジュペリ「夜間飛行」に、長年勤めた飛行機の整備士をただひとつのミスで解雇する場面がある。主人公はその非情な選択について、「ミスを犯した整備士を憎んでいるのではなく、整備士を通り抜けて現れるミスそのものを憎んでいる」「(ひとつのミスが人の死に繋がる仕事なのだから)情に流されず決定しなくてはならない」(※記憶に基づくだいたいの要約)とモノローグで語る。罪は個のものではなく、すりぬけて個を通じ表出するものである。だからこそ、個人個人がそれを表出させない安全機構として働くよう、禁を犯した者を厳しく処罰する。クライマックスで青年の毒殺を思いとどまったクレアは、罪の所在に関してこれに近い考えを抱いていたのではないか。

ただし、クレアの選択は真逆である。罪を犯した青年という「個」への復讐ではなく、青年を生み出した「全」と闘うことを選択する。自分に銃を突きつけ、すぐそばにいた団員を目の前で撃ち殺し、それを本気で「覚えていない」と言った男を、決して許したのではない。「個」の殺害をもって表面的に事件を終わらせるのではなく、誰もが青年になりうる社会という「全」と闘うことでしか、悲劇は終わらないのだ。

ラストシーン、再び合唱団らしい(儀式めいたものではない)唱歌をうたう合唱団を指導するクレアの姿は、テロ攻撃を受けてなお多文化主義を貫くことにより「あの出来事」との闘いに身を投じたことを示している。攻撃に屈さず、多文化主義を社会に根付かせ、二度と「個」に銃を撃たせない「全」を目指す。

魂を取り戻したとまで言えるかどうかはわからない。けれどひとが再び立ちあがり、前を向く姿は、魂を取り戻そうと苦しみ、事件を理解しようと走り続けたサバイバーの物語の終わりにふさわしいものだった。

*1:「確信犯」という言葉が故意犯の意味で使われている例を多々見るので念のために書いておくが、ここで言う確信犯とは辞書的な意味どおり「宗教的・政治的な思想から、自らの行為が罪にはあたらないと確信して犯行に及ぶもの」という意味で使っている

*2:例を挙げると、私は性的多様性に関して「存在するものは存在するのだ。そしてそれは『そう』である以上の意味なんかない(クリエイティブとか社交的とかは性自認や性指向とは別のカテゴリの話で、男性はこうだの女性はこうだのと決めつけるのが馬鹿げているのと同じように、ゲイだからこうだのトランスジェンダーだからこうだのと決め付けるのはまったくもって馬鹿げている)」と考えているが、シスジェンダー異性愛者以外は病気もしくは障害であるという価値観からすれば、私は「誤っている」だろう。どちらかが絶対的に正しいということはあり得ない。そのときどきで社会においてどちらがより好ましい振る舞いか、ということが言えるだけだ